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精霊流し  作者: 名夢子
36/46

開始前

三十六


 寝不足だったが、目覚ましで目を覚まし、身だしなみを整えて、家を出た。するとちょうど、加代の親父さんの車が、石段の前で止まった。ドアが開いて降りてきたのが加代だ。

「おお、ぴったし。ほら、乗って。お父さんが送って行ってくれるって」

 加代の親父さんに会うのは久しぶりだ。ご無沙汰していますと挨拶をすると、こっちは全然ご無沙汰されていない気分なのだがな、と笑っている。毎日のように僕の話題が、松尾家では出てくるらしい。加代を睨むと、小さな舌が加代の唇から覗いた。今日は僕の父と同じ仕事があるため、コンクールにはいけないという。

「次の県大会に出るときは、是非、聴きに来てください。加代さん、すごく上手になっていますから。」

 なんだか畏まって、加代をほめているな。ちょっと緊張しているぞ、僕は。

「もう県大会の話か。油断するなよ。敵は本能寺にありって言うけん。今できることを、いつも通りやりなさい。」

「はい。父さんにもそう言われました。昨日の夜、電話で。」

「そうか。じゃ、大丈夫だね。」

「はい、ありがとうございます。」

 この人も父に似ている。子供に大きな負担をかけまい、とする思いはわかるが、この年になると、それが逆に大きな負担だったりする。まぁ、僕がひねくれているのだろう。


 車は、朝のラッシュに巻き込まれないように抜け道を通り、あっという間に公会堂に着いた。降りてお礼を言おうとして、そういえば母が昨晩はお世話になりましたと追加した。

「いやいや、久しぶりに楽しかったばい。昔話ばよおけして。うちのもよろこんどった。まさか泊まりに来てくれるとは思うとらんかったけん。いやいや、気を遣う間柄じゃなかけん。うれしびっくりたい。」

 嬉しいとびっくりしたの合成語だ。そういえば父も、母もこの言葉はよく使う。


 予定より30分早い。楽屋口もまだ開いていない。僕は来る途中で朝ご飯を食べようと思っていたのだが、予定が狂った。でも、送ってもらったのはありがたかった。

「ご飯食べてないでしょ」

「ああ、どうしようか」

「実は私もなの」

「ええ、絶対食べてきたと思ったけど」

「それが、母さんもカズちゃんのお母さんも朝までしゃべっていたらしくて、寝坊して」

「あちゃ」

「あそこで、なんか食べよ。お小遣いは、ちゃんともろうてきたけん」

 加代が指さしたのは、麦草という名の喫茶店だ。早朝から深夜まで開いている不思議な店だ。店の重い扉を押して入ると、コーヒーの香ばしさが鼻につく。僕はナポリタン・スパゲティ、加代はサンドイッチを頼んで、腹の中に押し込んだ。食べ終わると、店のおばさんが、コーヒーを運んできてくれた。

「あの、頼んでませんけど...」

「モーニングセットやけんね、ついとるとよ。」

 思わず、ありがとうございます、と言うと、おばさんは僕たちの顔をしげしげとみた。

「お似合いのカップルやね。今日の合唱コンクールに出なさると?」

 思わず顔が火照ってしまった。

「ええ、出場します。」

「そうね、がんばらんば」

「はい、がんばります!」

 加代が、拳を握って言う。

「そうじゃ、なかと。がんばらんように、がんばらんば」

「それは、肩の力を抜いて、普段通りに、ということでしょうか」

 たぶん、そういことなのだろうと。父も、加代の親父さんも言っていたじゃないか。

「そう、思うとやったら、そうね」

 ふいと、おばさんはカウンターの中に消えた。不思議な人だ。けれども、普段通りにと言われるより、がんばらんようにがんばらんば、と言われた方が気持ちにすっと、言葉が溶け込む。

 さて、そろそろ楽屋が空く時間だ。おばさん、お勘定と言うと、そこに置いておけ、と言われた。それにしても安すぎる。二人で300円とは。やっていけるのだろうか。この店は。


 楽屋前に、木田がいた。うちの高校は、と探すと少し遠いところに1年生の女子がいる、すぐに加代が駆けていった。

「おはよ、緊張しとらんか」

「おお、おはよう。ちょっと緊張しとるね。ちょうどよかやろ。だらけとるよりは。」

 さすが木田だ。彼は小学生の時から合唱一筋。多くのコンクールやフェスティバルに参加をして、こういう場は慣れているのだ。

「1年男子ば頼むね。」

「おう、任せとけ。」

 ありがとう、木田。


 楽屋口から入ると、事務局が机を広げていた。すでに何校かのエントリーが済んでいる。準備に忙しい中を縫って、早く来ている学校のエントリー事務を行ってくれていた。今日は県央のコンクールだが、離島を合わせると22校。かなりの規模だ。県北、県南の3支部で高校の部のコンクールが同時に行われる。各支部上位3校ずつで、2週間後に県代表を決めるコンクールが開かれる。

 エントリー事務手続きが終わり、会場の中に足を踏み入れる。まだ蒸し暑く、少しカビ臭い。舞台の上では、準備を手伝う学校の生徒達がせわしなく動いていた。きびすを返して、公会堂の裏手にある楽屋の建物に向かう。ここに各校の控え室と、練習場がある。しかし、勝手に控え室で発声練習がはじまっている。僕らの出番はまだまだ先だ。最後から3番目。1時ぐらいからである。僕らの控え室にはまだ数人ぐらいしかいない。

 僕は缶コーラを買って、ぶらぶらと他の控え室を覗いていた。するとE高の部長さんに出会った。

「おはようございます。お疲れ様です。」

 あちらは3年生だ。きちんと挨拶をする。

「ああ、W高の吉野君。おはよう。山崎は?」

 いきなり、痛いところを突いてくる。知っていて聞いてくるあたりが、嫌みな奴だ。

「はぁ、よくわかりません。」

 正直に応える。

「あっそう、じゃ」

「失礼します。」

 いやな奴に会ってしまった。と思って隣を覗くと、J女子校だ。中高一貫校で、女声4部で極めて質の高い合唱を披露する。厳しいキリスト教系の私立学校で、生徒となかなか話をする機会もない。

「W高の吉野君?」

「はい、そうですが。」

 知らないJ高の女生徒に後ろから声をかけられた。

「私のこと、見覚えありませんか。」

 男に話しかけていいのか、と思っていると、その女生徒の顔を見て思い出した。

「ああ、小学校で。」

「ええ、その後は、去年のコンクールで。」

 コンクールといっても合唱ではない。ピアノのコンクールだ。県内だけの規模で行われる地元の新聞社主催のコンクールである。しかし、大手楽器メーカーも協賛しているので、目立った学生は、別の全国規模にも進出できるそうだ。僕は昨年、銅だった。金が不在、銀が2名、銅も2名だった。そのとき、同じ銅をとったのが彼女。たしかドビュッシーのパスピエを軽妙なタッチで弾いて、会場をうっとりとさせていた。その時僕もドビュッシーだった。子供の領分からドクター・パルナッスルを簡単に弾いて終わった。何しろ出場登録の後、篠沢先生が亡くなり、あっという間にコンクール。すっかり忘れていた。

「今年は、どうされますの」

「登録いつまででしたっけ?」

「今月末です。」

「あなたは?」

「もう登録しました。今年はバッハ弾きますの」

「それは、すごい。僕もできれば出たいのですが、」

「ああ、篠沢先生の後、どなたかにつかれて?」

「いえ、独学しています。」

「それだと、いろいろと不自由でしょうに。そうだ、うちの先生はどうでしょう。紹介いたしますわ。」

「ご心配、ありがとうございます。とりあえず適宜、合唱部の顧問の井沼先生に相談していますから、大丈夫です。本当にありがとう」

 そう言って僕は丁重に断った。あまりにも窮屈な感じがしたからだ。

「合唱は何番目?」

「12番目です。そちらは?」

「最後から2番目です。是非聞いてください。」

 うちの合唱部の次だ。

「はい、それでは、ごきげんよう」

「では、また」

 はぁ、ため息だ。こんな女性と結婚する男は、さぞや窮屈だろうな、などと失礼なことを考えつつ控え室に戻った。お、だいたいみんな揃ったか。

「おはようございます。」

 せっかく、丁寧に挨拶したのに、みんな、ん?という顔をしている。もう一度、

「おはようございます!」

「おはよー」

 いつもの明るい声が帰ってきた。1年生の男子はちゃんと「おはようございます」と言っている。よしよし。控え室の時計を見るとそろそろ9時半。最初の学校が始まる。

「みんな、会場に入るぞ。先輩方もよろしくお願いします。」

 ほーい、という返事とともに、ぞろぞろと会場に入り、若干後ろの席に僕らの場を占めた。いよいよ始まりだ。


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