小遣い
二十八
翌日学校に行くと、大塚のじいさんが亡くなったげな、という噂を耳にした。急いで大塚がいるはずの教室に行く。休んでいる。忌引きだって。何時? 昨日の夕方って聞いたばい、と級友が答えてくれる。ちょうど僕がハウスで遊んでいる時じゃないか。近くにいたのに。なんで、気がつかんやったとやろ。人が死ぬときは、いろんな人の魂ば、こんこんってつっつくとよ、って祖母が言っていた。でも大塚のじいさんは、僕の魂をつっつかなかった。いや、つっついたけれども、僕が気がつかなかったのか。
えい、と思って職員室に行き、担任を捜した。トイレから帰ってきたのか、ハンカチで手を拭っている。
「先生、学校休んでよかですか。」
「何時?」
「今」
訳がわからないらしい。
「幼なじみの祖父が亡くなったんで、ええ、ずっと入院していて、ときどきお見舞いに行ったりしていて、はい、お世話になっていて、ああ、ギター部の大塚です。」
一応学校にはきているから、早退扱いな、と言われ、僕は礼を言った。すると、向いの机から社会の藤原先生が声をかけてくれた。
「ほら、これば使え」
渡してくれたのは「御霊前」と描かれた香典袋だった。
「金はもっとるか?」
「はい、あります。ありがとうございました。」
職員室を出ようとすると、藤原先生が追いかけてきて、
「さすがに、お前もこれは持っとらんやろう」
と、数珠と葬儀場の地図を渡してくれた。ずっと日本史はこの先生だ。名字の通り、おいは公家ばい、といって笑わせていた。大人はこういうときには違うな、と思った。僕は腰を折り曲げるぐらい礼をして、学校を飛び出した。葬儀場は、学校からそんなに遠くない。浦上川を下っていけば着く。僕は、必死に走った。心臓が止まってもいいと思うほど走った。
葬儀場に着くと、「大塚家」と描かれた墨書が目に入る。今夜が通夜、明日が会葬か。僕は入り口で制服を整えてから、中をのぞき込んだ。大塚の姿は見つからないが、大塚の親父さんが、うなだれて座っているのが見える。そこに、福田精一と福田の妹、玲子がやってきた。
「おお、早かね」
「走ってきた。」
「ツカは?」
「見えん。入ってみよ。」
まだ、通夜の準備中らしく、祭壇に花がどんどん運ばれている。その真ん中に大きく横たわる白木の棺。係員が大塚のじいさんが、優しく笑っている、いや歌でも歌っているのだろうか、そんな笑顔の白黒写真を祭壇中央に飾っている。じっと見ていると、大塚がこっちにやってきた。
「わいたちゃ、学校はどうしたとや」
「早退」
「よかとに、来んでも」
今日の大塚はとげとげしい。でもそれはしかたがない。起きて欲しくないことが起きたのだから。
「こっちが勝手に来ただけばい。気にすんな。」
「おお」
大塚は、そういうとポケットに手を突っ込んで、
「じいさんに逢うてやってくれ。」
僕らを祭壇中央に誘う。僕らは、大塚の親父さんにお辞儀をして、じいさんの棺をのぞき込んだ。まだ蓋もされていないので、大塚のじいさん、大塚利一郎の旅出姿を見ることができた。手には、原爆病院でついていた、節竹の杖がしっかりと握られている。
「じいちゃんの手に触ってよかか?」
僕は大塚に、大塚の親父さんに尋ねた。
「ああ、是非。握ってやってくれ。」
大塚の親父さんが言う。じゃ、おいもと精一も同調し、結局四人でじいさんの手を握った。冷たい石のようだった手が、四人の体温で温められていく。そうすると、あの10円玉をくれた、いつものじいさんの手に代わって、僕の手を握り返してくれている。少しあごが上がって、何か言いたそうだった口から、何かが聞こえてくる。じいさん、なんて言うとっとや!
僕は失神していたらしい。通夜用の部屋に寝かされ、美佳が額のぬれ手ぬぐいを交換していた。慌てて起き上がると、逆に美佳がおどろいた。
「どうしたとやろ」
「あ、びっくりした、もう。」
その気配に気がついたのか、大塚のお母さんが顔をのぞかせた。
「大丈夫ね。どうしたとやろね。」
おそらく、気が急いて学校からここまで走ってきて、軽い脱水症状にでもなったのだろうが、事はそんなに単純ではない。美佳が、
「和樹さんが、急におじいさんに、お小遣いありがとう、ありがとうって言い始めて、止まらなくなって、それをみんなで止めていたら急に力が抜けたようになって。」
美佳は恐ろしかったのだろう。真っ青な顔をしている。
「美佳ちゃん、ごめん。おばさん、迷惑かけました。」
「いや、うちはうれしかよ。おじいちゃん、カズちゃんのこと好きだったものね。入院する前からずっとね。あなたが小学生の頃、ピアノの発表会があって、あれを聞きに行ってから、うちで私のピアノを弾いてくれると、おじいちゃんがあなたにお小遣いあげていたのよ。10円玉。いつも小さな財布に10円玉をいっぱい貯めていたわ。」
おばさんは、目に一杯涙をためていた。美佳も鼻をすすっている。小学生の記憶なんてほとんどない。ましてや大塚のじいさんにもらった10円玉の記憶なんか、悪いけど、今でも思い出せない。病院でほとんど失われていた記憶の中で大塚のじいさんは、僕にくれる10円玉の記憶だけは残っていたのだ。原爆病院でのじいさんを慰めるだけのゲームだと思っていたのは、僕の利己的な思いだったのだ。あの10円玉は、僕への祝福だったのだ。失神する直前に、それを僕が悟っていたのだ。いや、じいさんから聞かされたのかもしれない。
葬儀場に戻ると、祭壇は完成していた。棺の蓋もされていた、顔の部分だけが観音開きになっていて、覗くことができる。棺に近寄ると僕は、両手で大塚のじいさんの頬を優しくなでた。涙が白木の棺に染みを作っていく。その染みの部分に僕は唇を押し当てた。じいさん、大好きなじいさん。ありがとね。そして、僕は大塚の親父さんの前に行き、
「お騒がせしてすみませんでした。」
と頭を下げた。
「大丈夫ね。和樹のことやけん、我が事のように思うてくれて、気が沈んだとやろ。気にせんちゃよかばい。じいさんは、笑うように、いや実際笑いながら魂が飛び立ったばい。原爆で大変だった以外は、楽しか人生だったと。わいがきてくれて、ほんと、うれしがっとる。おいもうれしかもん。」
はい、と僕は頷いた。そしてさっきから頭の隅にこびりついて離れない事を打ち明けた。
「お願いがあるとですが。」
「どうした」
「お精霊さんのことです」
「ああ、さっき手配ばかけたよ。時期がぎりぎりやけんね。」
「利一郎じいちゃんの肖像画ば、描かせてもらえんでしょうか。」
この申し出にはさすがに大塚の親父さんも驚いていた。しかし、大塚が、
「そりゃよか。ね、父さん、母さん」
「頼んで、よかとね」
本当に良いのかと念を押されるのは、出来上がりには不安があるのがわかる。それで、ピアノの先生だった篠沢先生の精霊船に飾る写真を絵にしようかと考えていること、身内に映画看板を描いている画家がいて、手伝ってくれることを話すと、大塚の親父さんも乗り気になった。
「代金はちゃんと払うけん。言うてくれんね。」
「いや、お金はよかです。利一郎じいちゃんには、前金で一杯もろうとります。」
ちょっと気取りすぎたかと思ったが、大塚が、がくっと頭をうなだれ、鳴き声を上げ始めた。
「ありがと、カズちゃん。ほんと、ありがと。」
大塚の母さんも、深々と僕に頭を下げた。




