悪魔
二十六
市内にある県立高校4校の合唱部がE高校に集まって、今年の秋に行われる合唱祭の打合せがあった。すでに受験による幽霊部員と化している山崎部長の代わりに、副部長候補の加代と一緒に出席した。本物の副部長の松尾先輩は、喉の腫瘍手術のためしばらく学校を休んでいる。今期の主催はE高なので、段取りと、打合せ時期、それから市民合唱団との連絡方法を決めるのが、初回の題目だ。E高3年部長が手際よく進めていく。僕と加代は、それをせっせとメモするだけだったが、あのお祭りがまたくるのかと想うとわくわくした。
会議が終わり、音楽室からでたところで、寺田和仁に出会った。加代も知っている小学校時代の同級生だ。そのころからセミプロのギタリストとして、レコードデビューしていて、今では海外を飛び交っていると聞いていたが、その寺田がここにいる。
「寺、ひさしかばい。どこ、行っとったとや。」
「おお、お前が来るの待ってたんだよ。久しぶりに学校に来たら、W高の吉野が来てるって聞いてね、待ってた。ほんと久しぶり。元気してた。」
「すっかり東京弁」
「加代ちゃん、だよね。思い切り美形じゃない。ね、そうでしょ。ね」
うれしくなって、僕は寺田に抱きついた、加代も同じように。寺田も僕と加代に抱きついた。若干加代に抱きつく時間が長かったような気がしたが。
「いやぁ、ほんと懐かしいよ。会えて良かった。今晩の最終便で東京に戻らなきゃならないんだ。今レコーディング最中。」
「すごいねぇ。」
「で、これ、まだ完成してないけれど、デモテープ。今回はバッハだから。結構気合い入ってるんだ。全調性に挑戦して、二枚組で出す。若手では初の試みだってさ、レコード会社の人たちが言ってた。」
「わいも苦しんどっとね」
あまりにも明るい寺田が、気になった。中学生の頃はもう少し内向的だと思っていたのだが。
「ああ、そのとおり。苦しいよ。で、レコーディング抜け出して、こっちに来てみた。親父から電話で思い切りどやされたけど。よかった、来て良かった。吉野に会えたし、そうそう加代ちゃんが、めちゃくちゃきれいになっているのがわかったから。吉野が冷たくしたら僕のところへおいでね。」
加代が、寺田の肩口をかるくはたく。寺田は本当に時間がないらしく、マネージャらしき黒いスーツ姿の男性が頻りに、腕時計をみている。それに気がついたらしく、
「じゃ、ここで。ありがと。ほんと助かった。吉野ありがと」
寺田は何度も「ありがとう」を繰り返し、手を振る僕らに向かって、手まで合わせた。
「追い詰められとるみたいね。」
加代がぽつりと言う。加代のこのファースト・インプレッションは正確無比だ。
「若いから、聞く方のハードルが低いけど、この年になってくると、何十年もやっているプロと肩を並べないといかんもんね。最後のあがきやろ。バッハ24曲というのは。」
「成功してほしかね」
「ああ、そうなってほしか」
と言いながら、先ほど抱き合ったときに感じた寺田の筋肉質の背中、腕。きっとうまくいく、僕は直感した。
あの日、G組での加代が僕を抱擁して以来、普段と変わらないように僕らは振る舞っている。合唱部の皆は既にあの日の出来事など、過ぎ去ったもののように忘れてしまっているが、加代の姿を目にとらえるだけで、僕の左の頬がうずくのだ。それを知ってか知らずか、加代は隙を見つけては、じっとこちらを見つめてくる。指揮者の僕を見つめるのは部員として当然なのかもしれない、他の女子も、もちろん男子も僕の体から溢れるものを見逃さないように必死に、凝視している。しかし、加代と、そう久保の視線だけが異質なのだ。そのことを加代に伝えるべきだろうか。それとも、単なる僕自身の思い上がりなのか。いや、そうではあるまい。加代の場合は僕に抱く愛情は子供の頃のそれではなく、すでに大人の女性としての愛情のようなもの、あくまでも想像だが、そういったものに変化している。それにきちんと応えない僕が、加代の心をかき乱しているのも、理解しているつもりだ。こんな話を、寺田にしたら、どう答えるだろう。音楽でたとえるなら?
E高からの帰り道、今後の部活運営について加代の悩み、特に女子部員同士のぶつかり合いを聞かされた。土地柄のせいか、大概の場合、僕の一声で、女子の口げんかは治まるのだが、パート練習になると再燃するらしい。特に3年生が、松尾副部長が入院して不在なことを幸いに、下級生をつるし上げているらしい。辻先輩が仲裁することもあるらしいが、辻先輩はおなじパートの2年生長島とそりが会わず、ソプラノも2つの派閥に割れているそうだ。そして、久保ははっきりいって蚊帳の外、だれも相手にせず、パート練習の伴奏にも呼ばれずに、開いている個室でピアノを弾いているという。
「心配やろ、美佐ちゃんのこと」
ああ心配だ。さぞや心細いだろう。
「カズちゃんからいろいろ教えてもろうたから、同情しとるわけじゃなかよ。うちはうちなりに、すくなくともアルトはまとまっていかんばと、思うて、美佐ちゃんに伴奏ば、頼もうと思うとるとよ。」
「しかし、アルトのメンバーは納得するか?」
「それを納得させるというか、結局最後は美佐ちゃんの伴奏で、歌わんといけんやろ。だから、彼女の音にメンバーが合わせることができれば、自然と心も合わさるやろって。」
「ああ、そうかもしれん。おいが力不足やけんね。なんもうまくいかん。」
「いや、カズちゃんのせいじゃなかと思う。山崎先輩の責任感の無さにはあきれた。もう部長剥奪って辻先輩の言いよった。うちもそう思うとるけどね。」
そういえば、山崎先輩の姿は学校からもすっかり消えていて、3年生の間では山ごもりしとる、という嘘かほんとかわからないような噂まで聞こえてきている。
「正直、うちもおどろいた。カズちゃんが指揮するようになってから。」
「なんやろか」
「ほら、各パートで、音が拾えん娘がおったら、この音やー、って歌って聞かせるやろ。ファルセットで。それが、しっかりきまっとるもんやから、辻先輩もびっくりしとったばい。なんでテナーのファルセットがソプラノなのかって。」
ああ、と僕は思った。ファルセットの発声方法は、井沼先生直伝である。バリトン歌手の先生は、ファルセットだけでソプラノテナーのイタリア歌曲を歌えるのだ。事実僕に発声法を教えてくださったとき、僕の伴奏で歌ってくださった。マスターしたとは言えないが、ある程度まねすることはできるようになっていた。それに、今度のコンクールで歌う課題曲「氷の川」は、ソプラノのグリッサンドや、クォーター(四分の一度、半音の半音)がある。男声の中低音部と女声の微妙に噛み合わないバランスが、日の光に氷が緩み、ぎしぎしと流れ始めていく、そのような情景を作り上げる。僕のイメージの中には、モーツァルトの魔笛に登場する「夜の女王のアリア」がある。音楽室のビデオで見ただけだが、身も凍るようなコロラトゥーラが、最後には燃えさかるように僕の体を炎で包んだかのように感じた。だから「氷の川」で氷が浴びる太陽の光は、炎のようにあるべきだろうと、想像しているのだ。
「寺田君も大変そうやったけど、うちらも、もっと大変やね。」
「おいは、なんとかなると思うとるよ。」
「気楽やね。人ごとみたい。」
「加代がおってくれるけん。よぉ考えたら、中学の部活からずっと一緒やもんな。昔から助けてもろうちょる、」
ありがとうな、と言おうとした瞬間、加代が僕の背中に飛び乗った。びっくりして慌てて加代の両足に後ろ手を回した。
「知っとった?」
「なんか、あぶなかやろが」
「うちが、なんでいつも合唱部か」
「なんでって、加代は歌が好きやろ...」
言いかけて、わかった。加代は僕と一緒にいたかったのだ。一緒に音楽を共有したいのだ。いや同じ空間を共有したいのだ。
「ありがとう、加代」
僕は、心底そう思った。ありがたい、僕と何かを分かち合いたいと思ってくれる人が側にいたことを、初めて実感した。その一方で、僕はシュウちゃんの姉さんの事を思った。彼女には主が寄り添っているのだろうかと。
突然、加代が僕の耳をかじった。
「ゴリッ」
と音がしたとたんに加代は僕から飛び降りると、けけけと笑いながら逃げていく。あまりの痛さに、僕はよろけてしまった。耳に心臓ができたかのようだ。あいつは悪魔か。




