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精霊流し  作者: 名夢子
25/46

なみだ

二十五


 五月の座席順位決定試験は、なぜか四月末に行われる。ゴールデンウィークは先生と部活のためにあるという方針からだ。僕はシュウちゃんのおかげで順位を4つばかりあげた。四月の進級時より1つ足りないが、まあ現状復帰といっていいだろう。宿敵岡は3つ下がり、狙ったように僕の後ろの席になった。

「なんで、吉野がおいの前におっとや!」

 と椅子を蹴ってくる。振り返って、

「なんで、岡がいつもおいの後ろにおっとや!」

 食べていた途中のカレーパンを岡の口の中にねじ込んてやった。思いも寄らない辛さがいきなり喉に入ったのか、ゲーゲーむせかえっている。ざまあみろ。


 部活に急がなければ、と思い階段を駆け上っていると、加代が譜面を胸に抱えて4階から下りてきていた。

「おお、加代、どうしたとや」

 急に現れた僕に、体をびくっとさせて、

「どうもせん」

といつもの加代らしくない返事だ。ほら、いくぞと、加代の手をつかもうとしたら、ふりほどかれた。

「美佐ちゃんと、グラバー園にいったと?」

 僕は一瞬なんのことかわからなかったが、数週間前、久保の両親の離婚話を聞いたときのことだ。しかし、いったい誰がそれを見ていたのか。

「ああ、行った、行った。」

「なんで」

「なんでって、あいつにはいろいろ聞いて欲しかことがあったとやろ。」

「そうやって、美佐ちゃんばっかりよね。いいわね、美人は」

「なんか、その言い方は。言いたかことがあれば、はっきりいわんか!」

 かっとして、加代を怒鳴りつけてしまった。

「うちは、もうはっきり言った!」

 加代も僕の怒鳴り声に負けないぐらい大声で叫ぶと、持っていた楽譜を僕の胸にたたきつけて階段を駆け下りていった。怒りが一瞬で冷めた。傷つけてしまったのか。

 がらがら、と音楽室の扉が開いた。合唱部の部員、井沼先生までが僕の顔を睨んでみている。

「吉野が加代ちゃんをいじめた。」

「吉野君が松尾さんをいじめた。」

「吉野先輩が、松尾先輩をたたいた。」

「たたいとりゃせん!」

「いいや、あれはたたくとより、ひどか仕打ちばい。」

 山崎部長の一言で、僕は泣きたくなった。部員の奥で、久保がじっとこっちを見ているのがわかる。久保、お前のせいじゃなかけん、心配せんでよか。

「ほら、追いかけんば、男の名が泣くばい」

 と井沼先生のバリトンが聞こえた。

「早く!」

 辻先輩が音楽室から出てきて、僕の両肩をつかみ、脅迫した。しかたなく、加代を追いかけることにした。新人の宗が、

「せんぱーい、ダッシュ!」

と高らかなシュプレヒコールをあげた。ちがうやろ、そんなんとは。僕は加代になんと言ったらよいのだろうか。


 とりあえず、加代のクラス2年C組に行ってみたが姿はなく、途方に暮れて僕のG組に行ってみると、果たして加代は僕の机の上に突っ伏していた。僕はほっとするとともに、再び訳のわからないイライラ感がよみがえってきた。

「おい、なしてここにおっとや」

 加代はゆっくりと顔をあげた。目が腫れぼったい。相当泣いたのだろう。

「美佐ちゃんに、振り回されとっと?」

 そうかもしれない。でもそうだとは加代には言えない。

「大事か話は、おいより加代のほうが信用できるって久保には言うたと」

「そうだってね。そういって、うちにグラバー園のこと、K楽園のご飯がおいしかったこと、愛宕のおじさんが、泣き上戸だったってこと、いろいろ話をしてくれたわ。」

 僕は愕然とした。てっきり善意の第三者が加代に吉野が浮気ばしとる、とか言ったに違いないと思っていたのだが、まさか久保が自分から。じゃ、離婚の話もか。

「久保の親の話も聞いたとか」

「えっ、なんねそれ?」

 しまった、しかしここまできてはしかたがない。僕は、遡って篠沢先生が亡くなる直前、久保と出会ったところから、久保の両親のことまで、話した。

「なんだか、かわいそう」

「そんなこと言うたら久保に悪るかろ」

「そうじゃない。カズちゃんが。」

「隙間を埋めるためにカズちゃんが利用されとるように、思う。カズちゃんも隙間だらけやけどね、いっつもマリア様の方ばっかり見とらすけん、自分が利用されとるのが気がつかんと。私のことは見えとると?」

 加代の言いたいことは痛いほどわかる。小さい頃から加代は僕のことが好きだと言い続けてきた。子供の愛情表現だろうと思っていたが、ここにきてその愛情は僕にとって重い現実になっているのだ。しかし僕には想う人がいる。どう言っていいのかわからないが、触れてはならない大切な宝石箱のようなものだ。しかも独り占めはできない。その想いの裏腹に、確かに真っ暗な谷間がある。加代の言う通りだ。その谷間を埋めるために、僕はピアノを弾いている。一心不乱に。音楽がある限り、切り立った崖にある道は照らされ続け、暗黒の谷間に落ちることはない。いつか、この谷間が明かりで照らされ暗闇が消え去ったとき、その宝石箱が手に入るかもしれない。かすかな希望が、僕の心の裏に潜んでいる。

 久保が僕の不安定な心の裏側に入り込み、それを加代が叱る。僕はどうしていいのか、加代にかける言葉もなく、目の前の机に腰掛けた。大きなため息を、何気なくつくと、加代が僕の手をとって、引っ張った。よろよろと僕は床に跪き、反射的に両手を座っている加代の膝においてしまった。すると加代は、僕の頭を両腕で抱え、胸元に抱きしめた。加代の頬が僕の頭に押しつけらた。

「ごめんね。うち、待っとうけん。大丈夫やけん。音楽ばして。カズちゃんの音楽は、うちの救いやけん。カズちゃんの音楽ば、聞かれんようになったら、うちは死ぬばい。」

 ほのかに甘い加代の香りが僕の体を金縛りにしている。加代の想いの切実さに、僕は涙でしか返せない。言葉も失ってしまった。加代が僕の頭をそっと起こすと、その小さな舌先で僕の頬を伝う涙をぬぐった。その瞬間、僕は緊縛から解かれた。加代はすっと椅子から立ち上がると、

「先にいっとくけん。ジュースば買ってきて。」

と言い残すと、G組からかけ出て行った。僕は加代の舌先がぬぐった場所を手で押さえた。熱を帯びたように血脈が踊っていた。

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