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精霊流し  作者: 名夢子
23/46

ファースト・インプレッション

二十三


 次が久保の出番だ。僕は何も言わずに、久保の顔色を見た。薄暗くてあまりよく見えない。しかし真っ白の肌が上気して、ほんのり赤く染まっているのはわかる。そして、彼女の向こうに大きく引き延ばされた篠沢玲子先生のカラー写真が、僕たちを見下ろしている。

 司会者に呼ばれた久保は、すたすたと壇上に上った。楽譜を持って上り、まず先生に、そして周囲に礼をした。円形舞台なので、何カ所にもお辞儀をしなければならない。譜めくりは、篠沢先生のお仲間先生の一人だ。薄い黄色のドレスが、花畑の妖精のようにも見える。久保も僕も、他の生徒さんもみな制服なので、絵としてはおもしろくない。僕の位置からは久保の背中を通して腕を下から見上げる形だ。ほっそりとしたふくらはぎが持ち上がって、ペダルを踏む準備をしている。

 天使の行進は、僕の目を覚ますように始まった。そんなに強いタッチで弾き始めてどうするのだ。久保自身、自分がすっかり舞い上がっているのがよくわかるのだろう、顔がゆがんできている。どんな音楽でもそうだが、一度出した音は取り消すことができない。だから、どこで修正するのか、その修正がどこまで影響するのか、演奏する前に何度もパターンを練習しなければならない。ソルフェージュが完璧ならば、あまり慌てることはないのだが、久保を買いかぶりすぎたか、と反省。

 ところが、後半になって、空蝉のような状態が続く。ヴァルトシュタインの第1楽章が、聞こえているのにそうではないような音楽。久保が持つ、ある種の空洞性。聞いている方は、演奏者よりも音楽そのものを強く意識させられるのだ。さっきの反省は撤回。やはりこの音楽は久保にしかできない。しかし弾いている本人は、客観的に聞いているから戸惑い、やるせなく感じている。ゆがんでいた顔が、怒りを帯びている。久保、がまんしろ。このままで、良いんだ。僕は念じた。しかし、久保のタッチは怒のあまり、コントロールを失いつつあった。

 第1楽章の終幕は、突然に来る。久保はすっかりベートーベンが意図した罠にはまり、雑なまま終わった。しかし、お辞儀はきちんと、譜めくりをしてくださった先生にもお礼をして、篠沢先生に軽く会釈をして、一旦舞台からおりて、席に戻ってきた。拍手はおざなりのようにも聞こえる。

「もうだめ。あんなになるなんて。信じられない。」

 まだ、怒っている。

「いらいらしている暇なんてなかぞ。次、行くから。」

 僕は、おしぼりで手をぬぐうと、すっと席から立った。同時に久保も立つ。そして、僕らは司会者の言葉に誘導されるように舞台に上がった。篠沢先生がこっちをみてほほえんでいる。先生、聴いとってね。

 ヴァルトシュタインの第2楽章は、イントロドゥチィオーネ、導入部からはじまるヘ長調モルト・アダージョだ。僕の左手が主音であるヘ音をオクターブで響かせる。ピアニシモだ。久保の右手も低音部から始まる主音より5度上のハ音がスキップするように。そしてテーマが久保から始まり、僕に伝わる。それが音量や速度のアップダウンを経て、僕の波打つアルペジオに乗って、久保が飛び跳ねる、そしてだんだんと小さく。そして、久保が「あっ」と叫んだかのように、唐突にハ長調のロンドへと突入する。アレグレット・モデラートだ。

 今度も僕が高速のアルペジオを奏でると、久保の右手が高らかにテーマを歌い上げる。「さあ、みんな集まれ、私たちの、僕たちの祝いの歌を歌おうよ」と言っているようにだ。

 気がつくと久保の体が透けていた。目の前には二本の腕が、鍵盤の上を踊っている。僕の体も見えない。あるのは僕の魂と音楽。あ、久保がいた。

(いるわよ。ちゃんと。)

 この永遠と続くピアニシモのアルペジオは、魂と音楽の融合をはかるために必要なことなのだろう。久保、いくぞ、これからがこの曲の...

(ええ、わかっているわ。連れて行って、この曲の...)

 久保の右手のトリルが徐々に大きくなり、フォルテシモのテーマが鳴り響く、左手はスタッカートのアルペジオだ。まるで教会の鐘が鳴り響いているようだ。そして、フォルテのまま左手の天使達の行進の上を大きな鳥が舞うように3度のアルペジオが高速で上り下りしている。

 集まった天使達が、舞、歌い、飛び回る天上の世界は、僕たち二人にはあまりにも心地よかった。第1楽章で空洞だった久保の音楽に、なにかが再注入される喜び。それを支えている自分の音楽に、僕は幸福だった。そして、ピアニシシモで、「ねぇ、静かに、ちょっとおどろかそうよ」といたずら好きな天使がささやく。

(もうすこしね、がんばって)

(ああ、いくぞ、フォルテ)

ジャンとならすと、慌てた妖精が歌い出す。すると、あちこちで眠っていた妖精も、篠沢先生もやってきて歌い始めた。音楽は大きくなり、小さくなりまるでシーソーで遊んでいるように。そして水が流れ始め、天使達がちらかしたあたりをきれいに、流し去っていく。でも天使は、それを祝福している。

 そして、僕たちの祝福は終わった。スタッカートの和音を弾き終わると、大きく手が跳ね上がった。久保も同時にだ。そこでやっと久保の体が見え、息づかいも聞こえてきた。僕も、相当にひどい呼吸だ。僕は先に立つと、久保が立ち上がる椅子を後ろに下げた。二人そろって篠沢先生に礼をした。

(先生、お会いできました。お久しぶりでしたね。)

 そして、会場を舞台の縁に沿いながら、お辞儀をした。ここにきて、やっと会場の拍手が聞こえてきた。

「うまくいったばい」

「ええ、なんだか初めての気分だと思う。こういうの。弾いた感触がないけど、すごく疲れているわ」

 僕らは小声で話しながら、舞台から下りてきた。確かに、疲れている。体が重い。

 自分たちの席に着くと同時に、司会者が休幕を告げる。ご自由にご歓談くださいということだ。僕らは、何をする気も起きず、お互いに見つめ合っていた。

「エクセレント! ファースト・インプレッション、よかったわね。」

 祐宗先生だ。満面の笑みだ。まず久保をぎゅっと抱きしめた。そして僕も。こんなにきつく抱いてもらうなんて、両親以外に祐宗先生ぐらいだな、と思ったら、急に久保が大泣きしはじめた。また、泣きよる、と思ったが、安堵したのだろう。

「あらあら、」

 祐宗先生は久保にハンカチを渡し、再び抱きしめて、頭をなでていた。僕は慌てて立ち上がって、先生に座席を譲った。ありがとう、と言って先生は僕に目配せをした。あっちにいっていろ、ということらしい。ふむ、女はようわからん。僕はちょっとむっときて、弟子の後輩達のテーブルを回った。するとどこのテーブルでも、どうやって弾くんですか、どこまで練習すればあの音が出せるんですかと、質問攻めにあった。篠沢先生の元を離れ、別の先生に通っているはずだが、なかなかあの先生以上の音楽家はいないのだろう。僕は、連弾でしかも初見だったことを告げて、二人の相乗効果だということをわかりやすく話をした。わかりやすすぎたのか、女子中学生には久保と僕がつきあっているのか、ということまで聞かれた。そんなことじゃないだろ、音楽って。そして、また不愉快になった。


 集う会は、僕はソロを弾くことはなかったが、それなりに新しい発見が、ヴァルトシュタインの連弾であったので、まずまずの会だったと思う。一番の収穫は弾きながら篠沢先生に会えたことだ。これが一番うれしかった。この選曲で、連弾という冒険、祐宗先生の判断は間違っていなかったのだ。

 祐宗先生は飛行機の最終便で東京に戻り、明日ロンドンに帰るそうだ。忙しい人だ。ロンドンでも西ヨーロッパのコンクールが間近らしく、お弟子さん達の仕上げに取りかかっているらしい。少し、そのお弟子さんがうらやましいと思った。

 別れ際に、僕が一番悩んでいることをずばり、言い当てられた。

「あなた、もう先生に付くのやめなさい。人から学ぼうなんて甘いわ。自分の音楽は自分で築くもの。それが芸術よ。今日の連弾だって、久保さんがいたから成り立っていたわ。他の人じゃあそこまでのものは造り上げられなかった。私は、残念よ。あなたの限界が見えたから。次回逢うときは、その限界を打ち破っていて欲しい。わかったわね。絶対よ。」

「はい。」

 と僕は言ったつもりだが、涙で返事にならなかった。やっぱり先生は先生だ。きっと篠沢先生もこのことを、祝福していたのだ。僕のピアノで目指す次のものに対して。今度は、僕の方から、先生の倍以上の体の大きな高校生の僕が、先生に抱きついた。

「ほらぁ、しっかりせんば。久保さん、ひっぱたいてね。あとで」

 久保は僕の泣き顔を見て、また鼻を赤くしていた。

「せっかくのドレスが、吉野君のよだれで、べろべろよー」

 会場の周りにどっと笑いが起こった。長崎の夜は早い。もうあたりは真っ暗で、コウモリが宴の余韻のように飛び交っていた。それを見て、僕は先生の祝福だと思った。長崎ではコウモリは亡くなった方々の霊を運ぶと信じられている。「だけん、じぃっと見たらいかんと」と祖母によくいわれていた。そうか、先生の精霊流しは、来年になったんだな。

「祐宗先生。来年の精霊流しは、」

「ええ、必ず戻ってくるわよ。必ずね。」

 篠沢先生、祐宗先生はよか友達じゃなかですか。なんでんよおけわかっとらすと。そこが私にないところだから、嫉妬するとね。そうじゃなかろ。自分にないから、よけいに大切に思うとでしょ。

 そう思うと、コウモリ達は、一斉にネオンで照らされた空に飛び立っていった。

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