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精霊流し  作者: 名夢子
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わさび

十九


 翌日部活の後、再びピアノの練習をした。今日は皆さっさと帰ってくれる。気を遣ってもらっているのが、なんとなく悪いと思う。加代が、おなかがすくだろうと、おにぎりと缶コーヒーを差し入れてくれた。美佐の分まである。ありがとうと言うと、加代は、輝くような満面の笑みをたたえて音楽室を出て行った。気が利くぞ、加代。

 今日は先に僕が弾いた。トッカータ・ハ短調は、右手の音階から始まる。主音をトリルで飾り、その後、これこそハ短調といわんがばかりに高音から低音まで、タンタタというリズムで音階を刻んでいく。無表情に弾きながら、なおかつ高音の右手から中音部、そして左手へ切り返す。そして低音部でこの曲のテーマがうねるように鳴り響きだし、そして右手も応じていく。紡ぎ出された旋律は、倍音、3度、5度の位置で対位した旋律へと変化していく。荘厳に、そして優しく。バロック音楽の範疇を外れているかもしれないが、僕自身の思いを響かせたい、という一心だった。

 僕の楽譜には運指指示も、レガート指示も、スタッカート指示もない。もともとピアノが誕生する前の鍵盤楽器用に書かれているため、音量や音を繋ぐという概念がないのだ。だからといって、すべてスタッカートで弾いては、この速度では腕が壊れる。レガートで弾くと、まったくもってつまらない音楽になってしまう。そこで僕は、指を抜く弾き方をすることにした。昨日、松尾先輩が久保に指導した方法の基本となるもの。タッチするのと同時に、鍵盤の反発力を使って指の力を鍵盤の上方向に向かわせるのだ。これで一音一音が、澄んだ音を出すことができる。

「ピアノが違うみたいだね」

「ああ、こうすると、何本かの旋律が、はっきりわかるやろ。」

「今、3つ?」

「4」

 久保と話しながら弾くのは、少々大変だが、少し旋律をわかりやすく強めに弾いてみる。

「ああ、なるほど」

 途中まで弾いてやめにした。

「どうしたの」

「いや、腹が減った。」

 じゃぁ、加代が差し入れたおにぎりをいただこうと、二人して教壇の上にあるおにぎりにかぶりついた。ああ、うまい、とおもった瞬間、鼻の中が強烈にツーンとして、急に息ができなくなった。そして涙がじわりと目に膜を作って、空間をゆがめる。はき出すわけにもいかず、僕は必死で飲み込んだ。

「大丈夫」

「加代、ゲホ、の、ゲ、やろ」

 呪いの言葉が、わさびの辛さで打ち消されてしまう。音楽室を出る際、加代が浮かべたあの満面の笑みの意味がわかった。このわさび入りおにぎりを久保が食べなくて良かった、と思って久保が持っている袋を見ると「美佐ちゃんはこっちだよ」としっかり書いてあった。やられたのは僕だけか。缶コーヒーのプルトップをひねって開けて、おそるおそる口にした。よし、大丈夫。さすがに缶コーヒーに何かを混ぜることはできなかったのだろう。ああ、まだ舌の先がしびれている。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


 久保の隣に座ってみると、長崎港の対岸にある大きな三菱重工のドックに、真っ白な巨大客船が見えた。巨大客船は1隻では受注せず必ず2艘建造する。1艘の方は完成間近なのか、その美しい姿をさらし始めている。周りを行き交う船がとても小さく見える。

「あのね、」

「ああ」

 久保も客船を眺めているのだろうか。

「うちの両親が離婚することになってね」

え、と僕はおもわず久保の方を振り返る。

「それで、ずっと前からなんだけど、私が父か母、どっちについていくか、話し合っていたの。母について行けば、当然ここから引っ越して、東京に戻ることになるわ。父も実は東京の本社に転勤が決まっていて、父についていても東京に行くの。」

 どちらにしても、久保は東京に転校するのか。

「両親が離婚するのは、しかたがないこと。だって、こっちに転勤でやってくる前からのことだもの。毎日、両親の喧嘩は絶えず、本当にいやだった。落ち着いたかなって思ったけど、私が高校生になる頃に、やっぱり離婚するって話になって。逃げ出したかった。どこかに。でもどこにもいけなくって、ピアノばっかり弾いていたわ。私がピアノ弾いていれば、目の前で喧嘩はしないし。」

 僕は、この久保の言葉のどこで返事をしたらいいのか、なんて言ってやったらいいのかわからず混乱していた。

「私が合唱部に入ったのは、少しでも家に帰る時間が遅い方がいいから。それと音楽とも一緒にいられるし。ピアノの伴奏ができるかもしれないって思って。伴奏の方は松尾先輩みてびっくりしたけど。それに吉野君のピアノ。でも楽しくって毎日が。中学時代は方言が話せなくて、誰も相手にしてくれなかった。私の言葉変?」

「いいや、そんなことはないよ。」

 僕のイントネーションもおかしい。無理に標準語を使おうとしている。

「おいも、一回転校して長崎ば離れとるけん、少々イントネーションはあやしかと。東京弁に聞こえるやろ」

 久保は、僕の顔を見つめると、おもわず吹き出した。

「あはは、おかしい。いつもそうやって、おかしなこと言って。笑わすとねぇ。」

 よかった、久保が笑った。しかし、どうするのだろう。

「私が学校休んだときは、家庭裁判所の離婚調停に行っていたのよ。そこで、私の親権、どっちが私の親としてふさわしいかっていうのを決めてもらったの。ああいう席でも、うちの両親は言い合いばかり、正直参っちゃった。で、結局私は、母を選んだわ。でも、高校卒業までは長崎にいることにしたの。その間は父が私の面倒を見る。まぁ、面倒見てもらうのはお金と寝泊まりする家だけ、だけどね。」

 そこで久保は大きく息を吸い込むと、はぁとはき出した。

「そうかぁ、きつかったな」

「ううん、当然のことだと思う。私の親だもの。二人の争いは私自身のものでもあるの。決着がついたと思っていたけれど、昨日は母親がさっそく家を出て行って、朝から父が私に当たって、殴られたから、ちょっと気分が悪かったの。それが吉野君や学校のみんなに嫌な思いさせたとしたら、申し訳なかったわ。」

「誰も、久保が悪いとか、なんて奴だとかは、思うとらんよ。大丈夫やろかって心配しとると。おいかてそうやもん。普段と違うなって思えば、誰かて、どうしたとやろか、って思うのが普通やろ。」

「そうかもね。いや、吉野君も合唱部のみんなも、いつもそうだったよね。誰かが変だと、必ず、『どうや』と声をかけてくれる。みんながひとりひとりのことをちゃんと見ていてくれるものね。」

 ああ、と僕は言うと、立ち上がって窮屈だった背中の筋肉を伸ばした。

「久保は、これからどうすっとや。いや、進路のことたい。受験はどうすっと。まだ先の話かもしれんばってん。」

「家庭裁判所でもその話になったわ。そのとき私、音大行きますって言った。父も母も、どこかで自立できる職業にと思っていたみたいだけど、長く親のすねをかじろうかと思ってね。それで、たまたま母のお姉さんがピアノの講師をしているから、高校出て音大行って、そのお姉さんにレッスンを受けて、私も同じようなピアノ講師をめざすという、シナリオができたの。笑っちゃうわ。」

 久保も、すくっと立ち上がって僕のまねをして背伸びをした。

「でもピアノをもっと弾きたいと思っているの。吉野君に絶対負けたくないし。」

 久保はにっこり笑うと、僕の肩口をペシッとはたいた。そして、くるりと向きを変えると、ベンチの後ろに立っている木造建物に入っていった。僕はその後ろ姿をながめていると、影が消えてしばらくすると、2階のベランダに姿を現し、こっちを向いて手を振っていた。


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