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精霊流し  作者: 名夢子
18/46

アウフタクト

十八


 僕は結局1楽章を全部弾き終えてしまったらしい。らしいというのは、夢中になってしまうと冷静に自分の演奏をコントロールできないのだ。しかし、闇の中から息を吹き返し、神と地獄の亡者の戦いのイメージは、まだ心に残っている。

「いやはや、こん人は」

 松尾先輩が、呆れ果てたように僕を見る。僕は椅子から立ち上がって、久保の顔を見た。

「そんな風にはひけんよ、私」

「いや、そうじゃなか。これはおいの音たい。久保は久保の音ば響かせればよかと。」

「そうそう、そうだよ、美佐ちゃん。本当はこの曲は、もっと明るく弾かなきゃ。」

 松尾先輩の言うとおりだ。

「松尾先輩のリズムをまねすると良かと思う。先輩、ツーステップのアウトカウントは、どこでとっとると?」

「裏拍は手を抜くように弾く感じかな。ベートーベン全般に言えるのは、アウフタクトでのタッチが難しいところね。」

「手の重みだけ残して引き上げるように...」

と僕は手の形を作って見せた。

「そうそう、そうだね。」

 普通に和音を叩くだけでは、音楽にならない。そこには微妙なタッチをコントロールして、出てくる音場空間がある。久保はまねをして鳴らし始めた。

「ああ、左手だけやってみて」

「少し肩を巻き込んで」

 二人で始めたはずなのに、先輩や同僚がピアノを囲んで久保を指導している。まぁ、いいか。こうやって、ピアノ談義しながら弾いて教えて聴くのも悪くはない。久保にとっても。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


 まだ4月の春先で、観光客はまばらだ。グラバー園の入り口、切符売り場の下で僕は久保を待っていた。僕はいつものジーンズに淡いブルーの長袖シャツ。海風が強いから少し厚手のものだ。待ち合わせの10時には少し早かったが、派手な色合いの服をきた一連の人々は、みなお揃いの旅行社のバッチを胸につけて、ツアーガイドらしき人が、なにやらモゴモゴと説明している。その一団がそろって、入場口の方に上がって行ったのを見ていたら、久保が現れた。

 レースの綿のカットソーの下に水色の縦縞ワンピース。淡いブラウンの革靴は、一度見たことがある。天然パーマの少し赤みがかった短い髪が、海風になびいている。

「おはよう」

 久保は僕の顔をみると、少しほっとしたような表情を浮かべた。

「ああ、おはよう」

「早かったね」

「いや、べつに。たまたま」

「入ろう、中に。」

「よかばってん、なんでここなん?」

「へへ、実は、まだここに入ったこと無いの。中学校で転校してきたから、来るタイミングがなかったというか。」

「そうか。実は、おいも2回しか、来たことがないと。学校の遠足だけ。」

「へぇ、そうなんだ。近くに住んでいるのにね。」

「いや、近くじゃないよ。ここは大浦地区。僕は住吉、浦上より奥。遠いよ。」

「そういう感覚なんだ。ふぅん。あ、今日は、服、おそろいみたいだね。」

 僕もそう感じていたんだよ、と言いたかったが、口には出せなかった。なんだか気恥ずかしい。昨日の不機嫌はいったいどこにいってしまったのだ。久保は相変わらずよくわからない。

 入場券を買って入ると、なんだか知らないが、いろんな花が咲いている。僕がわかるのはチューリップぐらいだ。だらだらと続く階段を歩きながら、春の陽気と海風に吹かれて、体が浮くような気持ちになってきた。あの日以来久保とは時々出歩くことはあるが、ピアノ絡みのことばかりだった。

「ごめんね、いろいろ。心配してた?」

 いつの間にか、僕は久保の前を歩いていた。え、といって後ろを振り向くと、久保は立ち止まって僕の顔をじっと見つめて言う。

「悩み事があって、自分ではどうしようもないことだけど、なんとなく周りに迷惑かけて、ごめんね。」

「いや、あんまり機嫌が悪くて、おいのせいかと思うとった。それに学校休んだりしたから、体でも悪くしたのかとも。」

「体は元気。機嫌が悪かったのは、吉野君のせいじゃない。だから、ごめん。」

「どうしたとや」

 ここまで呼び出したのは、話を聞いてもらいたいからだろうと感じ、切り出したが、下から新たな団体が上がってきてうるさくなったので、僕らも立ち止まっていることができず、上へ上へと階段をあがっていった。

 小高い丘の上には、古い建物が建っている。その前の庭園の池畔に幸いベンチがあった。座ろうとするが、ペンキがはがれ、手すりもさびていて汚い。躊躇していると、久保が先にハンカチを敷いて座ってしまった。僕もその横に、そっと座った。

「あのね」

 久保が、目の前の造船所の機会だらけの長崎港を見つめながら口を開いた。

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