アウフタクト
十八
僕は結局1楽章を全部弾き終えてしまったらしい。らしいというのは、夢中になってしまうと冷静に自分の演奏をコントロールできないのだ。しかし、闇の中から息を吹き返し、神と地獄の亡者の戦いのイメージは、まだ心に残っている。
「いやはや、こん人は」
松尾先輩が、呆れ果てたように僕を見る。僕は椅子から立ち上がって、久保の顔を見た。
「そんな風にはひけんよ、私」
「いや、そうじゃなか。これはおいの音たい。久保は久保の音ば響かせればよかと。」
「そうそう、そうだよ、美佐ちゃん。本当はこの曲は、もっと明るく弾かなきゃ。」
松尾先輩の言うとおりだ。
「松尾先輩のリズムをまねすると良かと思う。先輩、ツーステップのアウトカウントは、どこでとっとると?」
「裏拍は手を抜くように弾く感じかな。ベートーベン全般に言えるのは、アウフタクトでのタッチが難しいところね。」
「手の重みだけ残して引き上げるように...」
と僕は手の形を作って見せた。
「そうそう、そうだね。」
普通に和音を叩くだけでは、音楽にならない。そこには微妙なタッチをコントロールして、出てくる音場空間がある。久保はまねをして鳴らし始めた。
「ああ、左手だけやってみて」
「少し肩を巻き込んで」
二人で始めたはずなのに、先輩や同僚がピアノを囲んで久保を指導している。まぁ、いいか。こうやって、ピアノ談義しながら弾いて教えて聴くのも悪くはない。久保にとっても。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
まだ4月の春先で、観光客はまばらだ。グラバー園の入り口、切符売り場の下で僕は久保を待っていた。僕はいつものジーンズに淡いブルーの長袖シャツ。海風が強いから少し厚手のものだ。待ち合わせの10時には少し早かったが、派手な色合いの服をきた一連の人々は、みなお揃いの旅行社のバッチを胸につけて、ツアーガイドらしき人が、なにやらモゴモゴと説明している。その一団がそろって、入場口の方に上がって行ったのを見ていたら、久保が現れた。
レースの綿のカットソーの下に水色の縦縞ワンピース。淡いブラウンの革靴は、一度見たことがある。天然パーマの少し赤みがかった短い髪が、海風になびいている。
「おはよう」
久保は僕の顔をみると、少しほっとしたような表情を浮かべた。
「ああ、おはよう」
「早かったね」
「いや、べつに。たまたま」
「入ろう、中に。」
「よかばってん、なんでここなん?」
「へへ、実は、まだここに入ったこと無いの。中学校で転校してきたから、来るタイミングがなかったというか。」
「そうか。実は、おいも2回しか、来たことがないと。学校の遠足だけ。」
「へぇ、そうなんだ。近くに住んでいるのにね。」
「いや、近くじゃないよ。ここは大浦地区。僕は住吉、浦上より奥。遠いよ。」
「そういう感覚なんだ。ふぅん。あ、今日は、服、おそろいみたいだね。」
僕もそう感じていたんだよ、と言いたかったが、口には出せなかった。なんだか気恥ずかしい。昨日の不機嫌はいったいどこにいってしまったのだ。久保は相変わらずよくわからない。
入場券を買って入ると、なんだか知らないが、いろんな花が咲いている。僕がわかるのはチューリップぐらいだ。だらだらと続く階段を歩きながら、春の陽気と海風に吹かれて、体が浮くような気持ちになってきた。あの日以来久保とは時々出歩くことはあるが、ピアノ絡みのことばかりだった。
「ごめんね、いろいろ。心配してた?」
いつの間にか、僕は久保の前を歩いていた。え、といって後ろを振り向くと、久保は立ち止まって僕の顔をじっと見つめて言う。
「悩み事があって、自分ではどうしようもないことだけど、なんとなく周りに迷惑かけて、ごめんね。」
「いや、あんまり機嫌が悪くて、おいのせいかと思うとった。それに学校休んだりしたから、体でも悪くしたのかとも。」
「体は元気。機嫌が悪かったのは、吉野君のせいじゃない。だから、ごめん。」
「どうしたとや」
ここまで呼び出したのは、話を聞いてもらいたいからだろうと感じ、切り出したが、下から新たな団体が上がってきてうるさくなったので、僕らも立ち止まっていることができず、上へ上へと階段をあがっていった。
小高い丘の上には、古い建物が建っている。その前の庭園の池畔に幸いベンチがあった。座ろうとするが、ペンキがはがれ、手すりもさびていて汚い。躊躇していると、久保が先にハンカチを敷いて座ってしまった。僕もその横に、そっと座った。
「あのね」
久保が、目の前の造船所の機会だらけの長崎港を見つめながら口を開いた。




