ヴァルトシュタイン
十七
部活が終わった後、3年生の福山部長に、音楽室に居残って久保と二人でピアノの練習をすることを申し出た。井沼先生にはもちろん事前に了承してもらっていた。
「よかよ。二人とも大変やねぇ。あまり時間がないでしょうに、がんばってね。」
福山部長は、長身でかなり痩せているためか、あだ名がマッチ棒だ。
まだ、先輩や同僚がいる中で、久保と二人で練習を始めた。久保がベートーベンの作品51番第1楽章を開いた。昨夜の今日なのだが、楽譜を読み込んできているのか、鉛筆で彼女なりのリマークが書かれている。
「出だしのところだけで、まずよかやろ。インテンポ(指示通りの速度)ではなくて、ゆっくりと鳴らして。」
「わかった」
久保の両腕が高く持ち上げられ、そっと鍵盤に触れたかと思うと静かに和音が響き出す。ベートーベンの三大ソナタといえば、このヴァルトシュタイン、テンペスト、告別だ。他にも、悲愴、熱情、月光の情熱的かつ対話的な楽曲があるが、僕はヴァルトシュタインが、かなり気に入っている。久保の両手から4つの音が列をなして響き合い、景色を変えながら進行していく。いまはまだゆっくりと、歩くぐらいだが。
久保のうまさは、和声が忽然と姿を現すタッチにあると思った。ペダルを踏んでいないのに、響きがピアノ自身に残って、空間に広がった音場の調子を整えるのだ。右手のスケールに入る部分で、演奏をやめて、久保が僕を見る。
「弾いたことあるとや。なかなか良かよ。」
「ううん。ないよ。ここは少し簡単かな、って授業中に眺めていたから、楽譜を。」
「音はとれているし、あとは拍子かな。今、少し3連符のようにきこえたけん。ツーステップで刻まんと、アレグロになったときに、乱れるかもしれん。」
「あ、そうか。どうしても右手がアウフタクトだから、うまくリズムに乗れない。」
そのとき、2年生の松尾先輩が準備室から出てきた。1年生の時から合唱部の伴奏をしている、ほとんどプロだ。
「ヴァルトシュタインやね。聞こえたよ。準備室にいても。すごかね、ピアニシモから入るのに、あんだけ響かせるとは、美佐ちゃんうまかね。」
「こいつ初見です。」
「うほぉ、ますます、すごか。ちょっと私にも弾かせて。これ弾いたことあるけん、ちょっと聞いてて。」
松尾先輩は、座ったかと思うといきなりリズムを刻み始めた。その響きは幽かだが、まるで地の底から這い出てくる何物かのようにうねっている。速い、アレグレットぐらいか。4つの音が均一のタッチではじかれており、ピアノから4本の真っ青な光がほとばしっているのが感じられる。松尾先輩も久保がやめた同じところで、手を止めた。
「すごかぁ。」
久保がため息をつく。
「じゃぁ次は、吉野君」
僕はもう準備ができていた。僕のヴァルトシュタインは光ではなく、闇だ。松尾先輩が立った後に、座ると、いつのまにか、帰り支度の先輩達がピアノの周りに集まってきた。僕は、それを眺め、鍵盤をみつめると、もう闇の中にいた。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「ちょっとごめんね」
そう言うと、僕は久保の後を追った。音楽室のある4階から、階段を下りると、僕ら2年生が住む隣の棟へと続く廊下に出る。その廊下を久保は歩いていた。
「おい、まてよ」
ぴたりと止まる久保。振り返る久保。
「何かあったとか。感じの悪かぞ」
黙ったままの久保が、視線をそらしている。
「なんか、言え。」
そういったものの、何を言われるのかと緊張する僕。
「明日、グラバー園に行こ。10時に入り口で。」
そう言い残すと、久保はきびすを返して、走って隣棟に消えてしまった。
グラバー園は、江戸末期、武器商人のグラバーが住んだグラバー邸が有名で、日本各地から観光客、特に修学旅行生が多く訪れる。しかし長崎に住んでいながら、小学校の遠足でしか行ったことがないのだ。そんなところで、何の話をしようというのか。




