トッカータ ハ短調
十六
久保の家に電話をすると、丁寧な東京弁で、いつもお世話になっています、と久保のお母さんに言われ、僕は、こちらこそお世話になっています、と意味のわからないやりとりをした。久保が電話に出ると、
「大丈夫、倒れたっていうじゃないの」
なんだか他人行儀の声だ。
「ああ、平気。ところで、電話したとは、篠沢先生のところから手紙の来たやろ?」
「ええ、さっきみたところ。」
「久保もなんか、弾くか?」
「吉野君は?」
そうか、久保も弾くのかと感じた。
「バッハ、トッカータ・ハ短調」
「ああ、やっぱり。良いかもね、雰囲気が合う。私は、まだ決めてない。弾ける曲がないの。決めてくれない?」
久保がついこの間までさらっていたベートーベンのソナタが頭をよぎった。
「ヴァルトシュタインは、どうね?」
「うーん、難しいかも。」
「第1楽章だけで十分やろうもん。」
「だったらいけるかも。教えてくれるよね。」
「ああ、もちろん。」
つい、もちろんといってしまった。うまく釣られたか。電話したのは、曲の打合せよりももっと大事なことを聞きたかったからだ。
「ところで、先生のお精霊様は、どぎゃんすっか、知っとうや?」
「お盆の精霊船のことだよね。」
「ああ」
「先生のお母様、葬儀は済んだけど、お墓に入れるのは来年にするって。1年間はお宅で過ごさせたいって。ピアノのそばで。だから、精霊流しは来年だって。」
そうか、そうなのか。よかった、まだ1年間は先生の魂は僕のそばにいてくれる。だとしたら、久保に教えることもできるだろう。
「そうか、来年か、教えてくれてありがとう。それじゃ明日、部活で。」
「おやすみなさい。」
それに、ああと応じて僕は電話を切った。あたりは真っ暗だというのに、窓の外では精霊船を作る木工作業の音が、あちこちから聞こえてくる。長崎に本格的な夏がやってくる。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
新しい1生もそれぞれが新しいスタートを切った頃、僕は先日の席順決定試験で惨敗し、なんと宿敵、岡の右隣になってしまった。岡に負けなかっただけでも良しとしたいところだが、隣に奴では、なんとなく疫病神に憑かれた気分だ。岡も同様らしい。
「なして、わいが、おいの右におっとや!」
「うっさか、馬鹿の感染する、黙っとれ!」
大声で叫びあうと、前列からシュウちゃんが、
「馬鹿同士、静かにせろ」
と睨む。一等賞には勝てない。ごめんなさい。いろいろ教えてくれたのに。ほんとうに、ごめんなさい、シュウちゃん。
僕より悲惨だったのが米田だ。なにしろ、クラスの一番後ろになってしまった。今日はなぜか剣道着を着たままだ。朝練後に着替える余裕がなかったのだろうか。しかし、そんなことは誰も聞かない。担任も、他の教科教諭も米田にはさわろうともしない。疫病神の岡でさえだ。それほどまでに、クラスでビリというのは、きつい。しばらくはそっとしておかねば。
7時限目が終わるともう16時半。今日は午後ずっと数学だ。頭が数式だらけで気が狂いそうだ。休み時間もなく、各人が自由に休むのだが、その間も先生の説明が続いていたりする。先生は入れ替わり立ち替わり、やってきて授業を進める。このマラソン方式は誰が考えたのか。学習効率だって悪いだろうと思うのだが、この長時間の集中力こそ、重要なのだ。東大で医者を目指す連中が上位にごろごろいるのだから、あたりまえか。医者の手術だって心臓移植に8時間もかかるって、ニュースで聞いたことがある。そういう僕もピアノを弾き出すとあっという間に4時間というのはざらだ。これからどんどん授業が厳しくなっていくのだろうな。
急いで音楽室に行くと、すでに文系の連中はパートに分かれている。井沼先生が新人男子を指導してくれている。プロの声楽家の指導を受けられるのだ。ありがたく思って軽く礼をして、山崎部長を捜したが、いなかった。そこに久保がアルトの部屋からでてきた。
「おお、どうや」
「なにが」
なんだか愛想がない。
「この間、部活休んだけん。どうしとったかなて。」
「ごめん、ちょっと急ぐから」
久保は、練習室の廊下を出て行ってしまった。




