ラストダンスは私に
十二
僕と久保は、昼食時のごたごたした時間から少し経って、病院内が静けさを取り戻した頃、篠沢先生の病室を尋ねた。病棟3階の一番端にある個室だ。階段を上がってナースステーションに声をかけ、来訪リストに住所と氏名を記入する。あまりにも静かになった病院が不思議な感じがしたのと、外とは別世界の涼しさが、眠気を誘う。久保が名前を書き終わると、僕らはてくてくと廊下を歩いた。二人ともあまり急いで病室にいきたくないのだ。
「先生、元気かしら」
久保が所在無さげに漏らす。すると、目の前のまさに篠沢先生の病室から一人の男性が出てきた。扉をがしゃんと勢いよく締めて、怒っているように歩いてくる。僕らの顔を一瞥すると、さらに怒ったのか、足音がどしどしと聞こえてくるようだ。
「誰?」
「知らん」
「あ、ちょっとまって」
久保はそう言うと、ナースステーションに駆け戻っていく。そして、先に記入したノートをのぞき込んでいるようだ。そして、何かを見つけたような明るい顔で、駆け戻ってきた。
「あった。あった。」
「なにが?」
「さっきの男の人。たぶん先生の彼氏。」
「ほんとに、おまえは、好きだの嫌いだのって話が好いっとっとね」
「そうじゃないって。ばか。あの人、たぶん先生の婚約者。」
僕は驚いた。先生が婚約、そして結婚するとは夢にも思っていなかったからだ。
「先生のお母様がおっしゃっていたもの。近々結納するとかなんとか。」
そうか、と返事はしていたものの、かなりのショックだった。別に先生が好きだと思っていたわけではない、というのは嘘だ。先生を身近に感じていたあのレッスンの時間は、先生を独占できていた。僕の音楽はすべて先生のものだった。先生が結婚することで、僕と先生の時間を奪われることはないだろうと考え直すと、少し落ち着くことができた。
「やっぱ、ショックだった?」
久保が僕の顔をのぞき込む。
「ぼけ」
僕はすたすたと先生の病室の前に来た。久保もしっかりくっついてきている。そしてドアをノックしようとしたそのとき、中から、か細い声が歌っていた。先生が、泣きながら、歌っていた。
♪
あなたの 好きな人と 踊ってらしていいわ
優しい ほほえみも そのかたに おあげなさい
けれども 私がここにいることだけ
どうぞ 忘れないで
ダンスは お酒みたい 心を酔わせるわ
だけどお願いね ハートだけは盗られないでね
そして 私のため
のこしておいてね
♪
先生の声は、どんどん細くなって、嗚咽に変わっていった。扉を叩こうとした僕の右拳は行き場を失って、揺れるように落ちた。すると、その手に久保の手がそっと重なり握りしめられ、僕は流れてきた涙を肩口でぬぐいながら、同じように震える久保の手をしっかりと握り返した。
篠沢先生がその短い一生を終えたのは、僕らが先生の病室に入れなかったあの日から1週間後だった。
(※ラスト・ダンスは私に 越路吹雪 作詞: D.Pomus, M.Schuman, 岩谷時子)




