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精霊流し  作者: 名夢子
11/46

秀子姉さん

十一


 食堂を出て、僕は果物籠を持ったまま、病院の中庭に出た。蒸し暑さが、再び体を包み込み僕を窒息させようとしている。久保が追いかけるように僕の後ろに寄り添う。

「さっき、孤児院に寄ったろ」

「あ、うん」

「あそこにおらした修道女。」

「うん」

「あれ、シュウの姉ちゃん。秀子さん。今はジアノ修道女っていう名前。」

「そうなんだ」

「そう、生まれたときは知らんばってん、魂は神様に捧げられとっと。」

 僕の投げ出すような言い方に、はっとする久保。まぁよか、知られても、よか。

「誰にも、いうなよ」

「わかった」

 主よ、僕の魂はいったい誰に捧げればよかとですか。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


 弾き始めた変ロ長調の曲は、速くもなく、遅くもなく一定のテンポで刻まれる。最近始めたバッハの小品、それを僕が勝手に変奏したものだった。ものの数分もかからない曲で、いくつかのキーの調子が悪く、音が割れるのが気に入らなかった。でも終わった後に、園内に大きな拍手がわいた。僕は椅子から立ち上がり、みんなに簡単な礼をした。加代を抱っこしていた院長が僕のそばに寄ってきて、

「難しい曲をこんなに弾きこなした人を始めてみました。アレンジは自己流? すばらしかったわ。あなたは、吉野君は、主が授けた子ね。」

と言うと、加代が抱きしめられたように、僕もきつく、きつく抱きしめられた。すると、園の子供達や修道女がみな寄り添ってきて、僕たちを囲むように肩を抱き合い、なにやらもぞもぞと言い始めた。それが主に捧げる感謝の言葉だと気がつくのに、時間はかからなかった。シュウの姉さんまでもがこの僕と院長を中心とした輪の一部になっている。そして、何かを祈っている。何をだろう。そう感じた瞬間に、突然に、祈りの輪が解かれた。

「さあ、おやつにしましょう。今日はすてきなゲストがいらしてるのだから。みなさん、おもてなしを」

 マリアンヌ院長の声は優しかったが、その言葉は、僕と加代がよそ者だと宣言しているに他ならない。そう思うと、急に悲しくなった。シュウちゃんと一緒にこれからも友達でいようと、ずっと思っていたのに、僕は彼の仲間からはよそ者だと言われる。いくらオルガンが上手に弾けても、彼らの仲間にはなれない。自分のそんな思いに吐き気がして、おもわず園を飛び出してしまった。どのくらい走ったのだろう。気がつくと青葉公園に出ていた。ブランコに腰掛けると、目の前に浦上天主堂が聳え立っていた。本当なら二つの鐘撞き堂が並び立っているのだが、原爆投下地点の間近であるはずなのに、全壊は免れ片側の塔だけが破壊された。それが、人間の恐ろしい面をだと、僕に教えてくれる。一方で、何物かが何をしても壊れない、美しい何かがあるとも教えてくれる。

「こげんところに、おらした」

 はぁはぁ、と息を切らした声が、シュウの姉さんだとわかる。彼女の心音が、今はもっとわかる。そんなにどきどきさせて、つらくないの。僕は、そう聞きたかったが、何も言えない。

「急に、みんなでお祈りしてしもうたけん、びっくりしたとやろうね。みんな吉野君があんまり上手に弾かるるけん、びっくりしたとよ。院長先生の言うとおりイエス様がうちらのために、使わされた天使様やろうか、って、ほんと、ちょっと思うたと。うふふ」

 シュウの姉さんの手のひらが僕の肩を優しく包む。僕のさっきまで硬直していた何かが、すうっと解き放たれた。

「ハウスに戻ろうね。お母さんももう少ししたら迎えにこらすけん」

 青葉公園から愛の河の畔にある孤児院まで、どのように歩いて戻ったかは覚えていない。ただぎゅっと、固く握りしめたシュウ姉さんの手が、握りしめられればしめられるほど、僕とシュウ姉さんの隔たりを示しているようで、つらかった。できればハウスにずっといたかった。でもそれはできない。ハウスは特別な場所だから。そう言ったのは、母だった。シュウちゃんが孤児院の子だと告げると、そんなふうに母は言った。だからそれ以来、ハウスに行くことはなかった。再びシュウの姉さんに会うまでは。


 秀子姉さんに再会したのは、僕が高校1年生に入学し、シュウちゃんも一緒に入学した。二人は別々のクラスだったが、中学校同様に、休憩時間には寄り添って話をした。部活の紹介があり、僕は合唱部に入り、シュウちゃんは科学部に入った。そして、帰り道で、シュウちゃんは自分の将来の夢を語り始めた。


 シュウちゃんの夢は医者になることだ。ハウスでは多くの子供がすぐ病気になる。他のハウスでも病気が発生する確率がかなり高いそうだ。教会同志で作った病院もあるが、やはり治療費は高額だ。だから、ハウスの子供を助けるために医者になるという。人のために職業を選ぶというのは、どうなのかな、と僕は皮肉たっぷりに言う。

「僕は理数系の成績がよくて、生物にも化学にも興味がある。これは持って生まれた才能やろ。だったら、僕が受けたご恩を、主に返したか。それでハウスの子供が助かるとやったらなおさら、がんばれる。それしか僕にはなかと。」

 そのとき、僕はマリアンヌ院長がそうしたように、シュウちゃんを抱きしめたかった。「おまえは主が授けた子だと」言ってやりたかった。でも、できない。照れくさいわけではなく、シュウちゃんと僕とが本質的に相容れない何物かであることが、感じられたからだ。


 浦上川を渡って対岸の川縁から、市内電車やバスが行き交う大通りにでた。するとシュウちゃんが急に、遠くを見て手を振った。

「おい、姉ちゃんの来よる」

「えっ」

 僕は、青葉公園で僕の肩を優しくなでてくれた秀子姉さんを思い出した。若葉のにおい。あの時以来会っていない。しかし、遠目に見える秀子姉さんはねずみ色の修道女姿をしている。僕は思わずつばを飲み込んだ。秀子姉さんは、シュウちゃんの笑みを、僕の顔を見ると軽く会釈をして、十字を切った。僕も軽く会釈を返す。

「ご無沙汰しとったねぇ。」

「いえいえ、こちらこそ、すみません。」

「よかとよ。ほら、修道女になったと。似合う?」

 おどけてみせる秀子姉さんは、追い求めたものに追いついたという表情だ。

「すごか。修道女になるとは。」

「なんも、すごかことなかと。今はまだ見習い。勉強することが山のようにあるとよ」

 神学と単純に言うが、文章を書くこと、本を読むこと、言語学、音楽、裁縫、経営と幅が広いのだという。一人前の修道女になり、宣教できるようになるまでは数十年かかるという。ましてや孤児院の院長や教区の区長になるには、三十年以上はかかるそうだ。

「秀一が神に授けられた子やけん、私が守らんといけんの。だから、私の魂は主に捧げたと。かっこよか話やろう」

 明るく振る舞う秀子姉さんだったが、僕にはそれが、つらい、にげたい、という言葉にしか聞こえなかった。

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