ハウス
十
「じゃ、好きな人はいるの?」
「おらん」
「ほんとうに?」
「ああ、せからしかぁ。意外と久保はしつこかねぇ。」
あ、いかん、また泣くかと慌てたが、泣きもせず、僕をじっと見ている。
「いるね、好きな人。」
断定された。
「ぼっけもんがぁ」
と捨てるように言い、僕はパイプ椅子を引いて立ち上がった。あたりにキーっといういやな音が鳴り響いた。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
シュウちゃんのハウスは、原爆公園裏手の中川沿いにあった。中川筋には浦上天主堂や様々な宗教施設が立ち、原爆にやられながらもけが人や病人を助け続けた永井先生の病院もあり、僕らは愛の河と呼んでいる。小学校から意外と遠いのでびっくりしたが、帰りは母親が迎えにきてくれるというので、学校帰りにシュウくんにさそわれるまま、ハウスにやってきた。当然加代もいっしょだ。加代はなんでも僕のすることは、やりたがり、先にできるようになるのが、うれしいらしく、いつも自慢されてきた。ピアノについては、先に加代が始め、それをみて僕もライバル心を抱いたのだ。よく考えてみると、お互い様かもしれない。
シュウちゃんに手招きされて、ハウスの通用口から中に入ると、深と静まりかえった暗がりの中に、イエス・キリストの木造がぼんやりと浮かんで見えた。するとシュウちゃんはゆっくりとランドセルを降ろし、片膝をついて、十字を切った。僕らは、どうしていいかどぎまぎしていると、
「信者じゃなか人は、よかとよ。頭をすこし下げるぐらいで」
と教えてくれた。ぎこちない会釈をイエス様にしたところで、院長室に向かった。この孤児院ドミニコ神の園のマリアンヌ院長は、細身の小さなおばさんだった。名前は前から聞かされていたので外国人だろうと思っていたが、なんとなく日本人にみえる。
「おばさん、日本人?」
おそらく聞いてはいけないことを勇気を出して聞いたのは加代だった。後になって、シュウちゃん自身もずっと疑問だったと言っていた。
「それは、すごく難しい質問ね。半分が日本人で半分がアメリカ人、でも今は全部が日本人、だけど魂はイエス様に捧げてるのよ。」
「へぇ」
と言ったもののよくわからなかったが、加代はそれで納得したのか、
「わかりました。ありがとうございます。私は全部が日本人で、魂はまだ成長中です。」
その加代の言葉に、マリアンヌ院長は感動したかのように小さな声をあげて、加代を抱きしめた。
「あなたは、すてきなレディね。えっと、なんてお呼びすればいいのかしら。」
マリアンヌ院長は僕と加代を大きな目で見つめた。
この日まで、ハウス、孤児院がどんなところか知らなかった。いや、母から聞かされてはいたし、いろんな本で、その存在や状況は知っていた。単に知っていただけだ。僕らがオルガンのある部屋でおしゃべりしていると、他の子供が次々に帰ってきた。そして、僕たちが座っている横に立つイエス様に十字を切り、ある子供はなにか、もごもごと言っていた。そこに一人、中学生の制服をきた少女が帰ってきた。長い髪を三つ編みにし、横に垂らした姿は、誰が見ても美しいと感じただろう。僕は西洋絵画から抜け出したのかと思ったほどだ。少女も皆と同じようにイエス様に礼をすると、そこから立ち去らず僕らの方にすたすたとよってきた。
「いらっしゃい。あなたが吉野君、そちらが松尾さんね。いつもシュウがお世話になっています。今日は会えるのを楽しみにしてたの。着替えてくるからあとでね。」
びっくりしていると
「秀子姉ちゃん。おいの一人の身内ばい。」
「いいなぁ、私もお姉さんがほしい。」
「おいは、なんでんかんでんほしがらんけん。」
ぽつりとシュウは言った。加代のばかたれ。僕は胸の中でののしった。少し気まずい雰囲気が流れ、僕はそこから逃れるように、オルガンの前に座った。
「弾いてよかや?」
シュウちゃんに聞くと、ああちょっと待ってて、と言うとオルガンのふたの鍵を取りに行った。そこへ、シュウちゃんの姉さんや他の子達、修道女の皆さんも集まってきた。シュウちゃんが、院長から預かった鍵でオルガンのふたを開けた。そこには、僕が見たこともないような鍵盤が並んでいた。鍵盤ひとつひとつが黄色くまだらに染まって、曲がっているものもある。低音部の黒鍵はかけている。そして鍵盤が木でできていた。学校のオルガンはプラスチックの鍵盤で、真っ白で、単なるオルガンだった。でもここのオルガンは、それだけではなく、僕の知らない何ものかがべっとりと張り付いているようだった。
「ひいて、カズちゃん」
シュウちゃんが言う。僕は、そのシュウちゃんの向側に寄り添うように立っている秀子姉さんの心音を感じながら、即興曲を弾き始めた。




