9.マナミ:誘拐犯①
「私も行く!」
扉に手を掛けたポールは、目を丸くした。
「きっと、武装した兵士がいる。危ないよ」
苦笑いするポールに、「大丈夫だよ」と笑顔でかえした。こう見えても、私は空手の黒帯。全国大会に出場したこともある。
夫の潜伏先を確認して、ヨシハルはケイに預けた。ゲートが開くのは三日後。それまでに、ケイの娘を連れ帰ればいい。
ケイは夜食と飲料を用意してくれた。
「お待たせ。行こうか。こっちでしょ?」
「よくわかるね」
すっかり日が暮れて暗かった。
空には月が三つ、空には赤、黄、白の星が無数に散らばっていた。高層ビルはないし、住宅の灯りもない。綺麗な夜空だった。
草原の脇道を歩いた。
最期に夜空を眺めるのはいつだったか、記憶を探った。
小学生のとき、父と行ったキャンプだ。テントから見上げた夜空は綺麗だったけれど、野生動物の鳴き声が怖くて眠れなかった。そんな私を見て、「熊なら一撃で倒せるから、安心して眠りなさい」と父は言った。本当に熊を倒せたとは思えないが、私を安心させようとしたのだろう。
事故で母を亡くしてから、父と二人で暮らしてきた。ピアノが欲しいと言ったら「一緒に演奏してくれるなら」と買ってくれた。父の演奏するギターと何度も合奏した。私と演奏する父は、とても楽しそうだった。中学生になってから話す機会は減ったけれど、父はいつも私の味方だった。勤めていた大企業の研究所を辞めるときも、父は反対しなかった。
「なんくるないさ」が口癖の父は、いつもビートルズの歌を口ずさんでいた。
「何の歌?」
不意にポールの声がした。無意識に口ずさんでいたようだ。
「あ、ごめん。私の世界で有名な歌。父が好きなんだ」
「へー、そうなんだ。ところで、レディッビーってどういう意味?」
「やりたいようにやればいい。なんとかなるさ。そんな意味だね」
本当の意味は少し違うけれど、父はそう解釈していた。
「前向きだね。この世界には珍しい、楽観的な歌だ」
「そうかな?」
「そうだよ。この世界の人は、現世は死後に天国に行くための試練、と捉えている。だから、生きるのは辛いことなんだ」
「なんとかなるさ、だと真剣に試練に向き合っていないかな?」
「そう考える人もいるかもしれないね」
ポールは目線を落として、苦笑いした。
「そういえば、夜の外出は危険、とケイから聞いた。危ないのかな?」
「危険だよ。狼がうろうろしているからね」
「今のところ遭遇していないね。どうして?」
「それは、僕が一緒だからだよ。狼は自分よりも強いものを襲わない」
ポールは上腕二頭筋を強調するポーズをした。このポーズは異世界でも同じらしい。たしか……バイセップス。ボディビルディングが趣味の友人が、そう言っていた。
「強そうには見えないけど?」
「失礼だな。熊なら一撃で倒せる」
「はいはい」
キャンプ場の父と同じセリフだった。居酒屋で泥酔した元上司も言った。このセリフも世界共通だ。
ポールは優れた嗅覚を持っている。魔法も使える。でも、熊は……無理だろう。
丘に上がると、町の灯りが小さく見えた。あの町にケイの夫が潜伏している。灯りは遥か遠くにある。ここから歩くと、朝までに到着できるかどうか。
「あの町まで歩くのか。遠いな」
「早く着きたい?」
朝から十時間以上歩いた。疲れたし、もう歩きたくない。投げやりに「当たり前でしょ」とぼやいた。
「驚かないで、聞いてほしい」
真剣な眼差しで、ポールが私を見つめた。次に続く言葉を想像して、心拍数が上がった。緊張して手が湿る。小さく息を吸ってから、「うん」と頷いた。
「僕は飛べるんだ。あそこまで飛んでいこう」
予想を裏切る言葉に「なんて?」と訊き返した。
「だから、僕は飛べるんだ」とポールは目を輝かせた。
不覚にも異世界でのロマンスに期待した自分を恥じた。犬並みの嗅覚を持ち、熊を一撃で倒せるポール。どうやら、飛べるらしい。
「あ、そう。飛べば?」
目を細めた私が、信じていないと感じ取ったのだろう。ポールは「本当に驚かないでね」と苦笑い後、低い声で何かを唱えた。
ポールの身体が急に膨脹した。爪が伸び、翼が生えた。何が起きたか、理解できなかった。
目の前に、黒い竜がいた。ネバーエンディング・ストーリーのような可愛い竜ではない。ハリーポッターに登場する悪役の竜に似ていた。
「どう? 驚いた?」
低い唸り声がした。体が大きくなって、音程が低くなったのだ。
「悪そうな竜だね」
正直な感想を言ったら、竜は両の翼を上げて、私を威嚇した。
どうやら、気に入らなかったらしい。大人気ないやつだ。
「驚かないの?」
「驚いたよ。でも、私の世界では、異世界に竜がいるのが定石なんだ。竜に遭遇する心の準備はできていた。だから、ポールが期待していたよりも、驚きが小さいんだよ」
ポールは「そう」と不満そうに唸り声をあげた。




