6.ハンナ:指輪
「さあ、行こうか」
ポールがゆっくりと扉を開けた。
しばらくここには帰れない。母に抱き着くと、ハンナの視界が滲んで揺らいだ。
「人を簡単に信じてはだめよ」
世間知らずのハンナを心配した母からのアドバイス。
「母さんも元気で」と別れを告げて、外に出た。
雲一つない空から、強い光が小麦畑に降り注いでいた。風が土の匂いを運んできた。
これから行く先は別の匂いがするのだろう。この匂いを忘れないように、ハンナは深く息を吸った。
「どこに行くの?」
「ああ、伝えていなかったね。あれだよ」
ポールは空に浮かぶ城を指した。あそこには神が住む、母からそう聞いた。
「あれは神の城だよね?」
「僕は神じゃない。あれは竜人の住む場所だよ」
「なぜ浮いているの?」
「人間が攻めてこないから」
行先は空に浮かぶ城。どこにいても見える、この世界の象徴。
「城の中にどうやって入るの?」
「あそこまで飛んでいく」
ポールは自分を竜だと言った。
ハンナが読んだ物語では、竜は飛んでいた。ポールの翼はどんなだろう? 硬い翼かな?
「さっきからずっと歩いているよね。飛ばないの?」
「平地から飛び立つと、目立つでしょ。騒ぎになるのは避けたいから、目立たない場所まで移動しているんだよ」
ポールは軽い足取りで、先を歩いていった。
どこから飛び立っても、竜は目立つ。ここから飛べば歩かなくていいのに……そんなことを考えながらハンナは後をついていった。
草原の上を風が静かに流れていった。緑の波が揺れ、ポールの影が草の海を泳いだ。風に吹かれたハンナのワンピースがポールの影を追いかけているようだった。
「あとどれくらい?」
「あの丘まで。もう少しだよ。そうだ、君にプレゼントがあるんだ」
「プレゼント?」
「丘に着いたら渡すよ」
炎天下の草原。もう歩きたくなかった。
暑い。喉が渇いた。愚痴ばかり浮かんできた。
「さあ、着いたよ。少し休憩しよう」
その言葉を合図に、ハンナは木陰に倒れ込んだ。汗がびっしょり、ワンピースが背中に張り付いていた。
「飲む?」
どこから出したか、ポールは透明の液体の入った容器を出した。
毒が入っているかもしれない、ハンナを操る魔法の水かもしれない。頭では理解していたけれど、喉がからからだった。
母に「人を簡単に信じてはだめよ」と言われたばかりなのに、ハンナは一気に液体を飲み干した。
「慌てなくていいよ。取らないから」
声を立てて笑うポールを、ハンナは睨んだ。
「ところで、プレゼントって?」
ポールは「そうそう」とポケットを探った。
「これだよ。ユキの指輪。君に渡したかったんだ」
ポールが二百年間持っていた指輪。それは石も模様もないシンプルな指輪だった。
「もらっていいの? 大切な指輪でしょ?」
「大切だよ。だから、君に持っていてほしいんだ」
ポールの口元がゆるんだ。
ハンナにはポールの意図がわからなかった。でも、断る理由も思い浮かばなかった。
しかたなく、ハンナは指輪を受取った。
「ユキはどんな人だった?」
「ユキは僕の愛した人だ。君にとても似ている」
「今でも会いたい?」
「もちろん」
ポールは照れたように頷いた。嘘はなさそうだった。




