4.ハンナ:誓約
「家まで送っていくよ」
男はポールと名乗った。強盗から救ってくれたのだから、悪い人ではなさそうだ。
草原の向こうに赤い屋根の家が見えた。小さな煙突から、白い煙が静かに立ちのぼっていた。ハンナは走り出した。リボンを揺らす風は、いつもより少し冷たかった。
息を切らして家に着くと、力強く扉を開けた。
「ハンナ、おかえりなさい」
「ただいま」
母の顔を見たら、緊張の糸が切れた。ハンナの籠を握りしめる手が震え、目から涙が溢れた。
籠を放り投げて強盗から逃げた。地面に落ちて卵はほとんど割れてしまい、籠に残ったのは二つだけ。
「あのね……お母さん……ごめんなさい……わたし……」
支離滅裂なハンナに代わって、ポールが母に説明した。
「あなたが無事ならそれでいいの」
母の目に涙の粒がこぼれそうに溜まっていた。
ここ数十年の間に、人間の寿命は延びた。寿命が延びても、認知機能、身体機能の低下は起こる。人間は老いには逆らえなかった。
ある科学者が「若い臓器に交換すれば健康寿命を延ばせる」と実験データを公表した。老人の臓器を、若い人のものに取り換えれば、身体機能を劇的に改善できたそうだ。それ以降、臓器売買ビジネスが横行するようになった。
強盗は若者を誘拐し、臓器ブローカーに引き渡す。ブローカーは闇医者を雇って若者から臓器を摘出し、富裕層に移植する。
臓器売買は法律で禁止されている。しかし、国がいくら規制しても人身売買、臓器売買は収まらない。若い臓器が欲しい高齢富裕層がいくらでも金を出すからだ。
ハンナが捕まっていれば、臓器を摘出され、死体は捨てられ、どこかで朽ちていた。もし、ポールが助けてくれなかったら……考えるとぞっとした。
立ち尽くしたハンナの横で、ポールが目で合図したら、母は頷いた。
「ハンナ、話があるの。そこに座ってくれる?」
ハンナは母の横に座った。前にはポールが座った。
ポールは目立たない容姿なのに、どこか目を引く。母と同年代に見えるけど、もっと年上にも年下にも見える。目の前にいるのに、ここにはいないように錯覚する。
「あなたはこれから、ポールと暮らすの」
母が何を言っているのか、ハンナには理解できなかった。
会ったばかりの男と暮らす?
ハンナが顔を上げると、ポールがほほ笑んだ。
強盗から助けてもらったことは感謝していた。悪い人ではない。それは分かる。
でも、ポールが何者なのか知らないし、母と離れる理由が分からなかった。
「どういうことなの? 私が嫌いになったの?」
母はハンナと目を合わせず、視線を逸らした。
ポールが「僕から説明するよ」と首をすくめた。
楽器のように透き通った声。でも、感情はこもっていなかった。
「僕と君の一族の間には誓約がある。古い、古い誓約だ。昔、僕の一族は君の一族を助けた。その見返りとして、君の一族は娘を差し出すことになっている」
「そんなことを言われても困ります。誰がそんな誓約をしたのですか?」
ポールはハンナをじっと見つめて、「ふっ」と短く笑った。
「何がおかしいのですか?」
「いや、すまない。あまりにそっくりだったから。誓約をしたのは、君にとても似た人だ」
話をはぐらかされたようで腹が立った。ハンナはポールを睨みつけた。
「だから、誰ですか?」
「君が会ったことのない大昔の祖先だよ」
「曽祖父母ですか?」
「違う。もっと前。ユキという名だ。亡くなったのは二百年前だね」
ハンナは口をぽかんと開けた。
そんなわけがない。二百歳を超える人間など存在しない。
「私を騙して、楽しいですか?」
眉が吊り上がったハンナを見て、ポールは首をすくめた。
「僕を触ってみて」
ポールは机の上に腕を置いた。強盗を倒したとは思えない、細長い白い女性のような手だった。
ハンナはポールの腕を触った。硬かった。皮膚ではなく、道端の石を触っているような感触がした。
「僕はヒトじゃない。よく見ていて」
ポールが何かを唱えると、人間の腕に見えていた部分がぼやけ、黒い鱗が現れた。
「トカゲ?」
「竜と言ってほしいな。正確には竜人という、竜と人の中間の種族だ」
ハンナが手を放すと、黒い鱗は人間の腕に戻った。
人間に化けた竜。ハンナはそんな物語を読んだことがあった。その物語で竜は、村長に若い娘を差し出すように要求していた。
「生贄というわけですね。私を食べるのですか?」
ポールは「まさか」と笑った。
「竜人はヒトを食べない。半分ヒトだからね。それに、きっと美味しくない。君も犬を食べないだろ?」
ポールは部屋の隅に座り込む老犬を指した。
「そうね。じゃあ、あなたが私を必要とする理由は何ですか?」
「君に手伝ってほしいことがある。とても大事なことだ。だから、僕は君を迎えにきた」
竜から逃げられるだろうか? 逃げられたとしても、どこに行けばいい?
「私に断る権利はありますか?」
「申し訳ないけれど、ない。誓約に従って、君は僕と行かなければならない」
「そうですか」
「心残りはある?」
ハンナはぼんやりとテーブルの一点を見つめた。
心残りしかなかった。母に会えなくなること、犬に会えなくなること、学校のみんなに会えなくなること。あと、母のスフレケーキが食べられなくなること。
「スフレケーキが食べたい」
頬をゆるめた母は「いいわよ」と調理場へ向かった。
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