3.マナミ:エリュセア公国
「まだ歩くの?」
先を歩くヨシハルに不満をぶつけた。
母のスカーフを見つけた、ヨシハルはそう信じていた。でも、それは勘違いだ。賭けてもいい、あれはヨシハルの母のスカーフではない。
似たような色、素材のスカーフはどこにでもある。なんなら、私のクローゼットにもあったような気がする。
ヨシハルは私の不満を気にかけず、無言で歩を進めた。
それにしても、このパビリオンはどこまで続くのだろう?
どこまでも続く草原。終わりが見えなかった。この広大な空間を地下に作った職人には敬服する。しかし、パビリオンとして注目すべき展示物はないし、入場者は私たち以外にいない。
スマートフォンは圏外。ヨシハルは戻ろうとしない。ヨシハルを一人で行かせるわけにいかないから、とりあえず後をついて歩いた。ヨシハルを迷子センターに連れていくつもりだったのに、このままでは、私も迷子になりそうだ。
どれだけ歩いただろう。草原の中に、赤い屋根の建物が見えた。パビリオンの係員がいれば、本部に連絡してもらえる。その係員がイケメンなら、なお良い。
「ヨシハルくん、そこに入ろう」
ヨシハルは少し眉をひそめてから、首を縦に振った。疲れたのだろうか? そうであることを願う。私はもう歩けない。
昔々、母を探して三千里歩いた少年がいたそうだ。三千里は一万二千キロメートル。地球一周は約四万キロだから、その少年は地球の三分の一を歩いたことになる。
ヨシハルも三千里歩くつもりか? 私には無理だ。とにかく、あの建物で休憩したい。
赤い屋根の建物は草原の中にぽつんと建っていた。古い洋風の家。近くから見ると、赤い屋根は黒ずんでいて、白い壁は少しひび割れていた。窓にはカーテンが掛かっており、中に人の気配があった。
「すみません。誰かいますか?」
扉を何度かノックすると「はい」と女性の声が聞こえた。イケメンの可能性は消えたが、中に人がいてくれてよかった。パビリオンの係員に頼めば、地上に戻れる。
扉が開くと女性が出てきた。私と同年代の黒髪の女性、背の高さは私の肩くらいだった。
「母さん?」
女性を見るなり、ヨシハルの声が弾んだ。当の女性は「誰?」と困惑していた。
「僕だよ。ヨシハルだよ。息子を忘れたの?」
「ごめんなさい。私に息子はいないのだけれど」
ヨシハルは信じられないのか、「僕だよ」と繰り返した。
「あの、お名前は?」
「ケイです。私には五歳の娘がいますけど、息子はいません」
ヨシハルに「お母さんの名前はケイなの?」と尋ねた。
「母さんの名前はケイコ。似ているけど、ちょっと違う」
ヨシハルからため息が漏れた。
母とそっくりの外見、似た名前。でも、ケイはヨシハルの母ではなかった。
「あっそれ、私が落としたスカーフ。どこにありましたか?」
ケイはヨシハルが持つスカーフを指差した。
「ここに来る途中の草原にありました」
無言のヨシハルに代わって答えた。肘で突くと、ヨシハルはスカーフをケイに渡した。
「ありがとう」ケイはヨシハルにほほ笑んだ。
ヨシハルには申し訳ないが、ここに立ち寄った目的を果たさなければいけない。
「あの、電話はありますか? 迷子センターに連絡したいのですが、電波が届かなくて」
「電話?」
「ええ、本部への連絡用の電話です」
「本部? あの、何のことですか?」
ケイは困惑していた。パビリオンの係員は日本人だとは限らない。日本語の「電話」が通じないかもしれないから、「こんな通信端末です」とポケットからスマートフォンを取り出した。
ケイは首をすくめた。それは、スマートフォンを初めて見たような表情だった。
「それ何?」
ヨシハルの声がした。こちらは、興奮した表情だった。
「スマートフォンだけど……見たことない?」
「ないよ」
視線を移すと、ケイは無言のまま頷いた。二人ともスマートフォンを見たことがなかった。
私だけがスマートフォンを知っている。何かがおかしい。思い返せば、このパビリオンに入ったときから違和感はあった。
違和感を確かめるため、ケイに質問した。
「あの、ここはどこですか?」
「エリュセア公国です」
パビリオンのエントランスにあった、聞いたことのない国名。ケイは東洋人に見えるけれど、この建物は西洋風。きっと、中央アジアか東ヨーロッパ辺りにある国だろう。
「この子を迷子センターに連れていくために、地上に戻りたいのです。どこかに地上に上がる階段はありませんか?」
「地上に上がる階段? ここは地上ですよね?」
ケイは困惑していた。階段が一カ所しかないのであれば、扉に戻ったほうがよさそうだ。
「ヨシハルくん、そろそろ帰ろう」
建物を出ようとヨシハルの手を取った。
礼を言おうと振り返ったら、「もうすぐ夜になります。外を歩くのは危険です」とケイに止められた。たしかに、草原には街灯がなかった。夜になると道に迷うかもしれない。
扉の位置を確かめるために、地図アプリを起動したけれど、何も表示されなかった。スマートフォンが圏外なのだし、アナログな方法で位置を把握するしかない。
太陽が沈む方角が西。だから、扉の方角を知るためには太陽の位置を確かめればいい。
地平線の先に太陽が見えた。大きな太陽の横に……小さな太陽?
「あの、太陽が二つ見えるのですが……」
「ええ、太陽は二つあります。夜には月が三つ見えますよ」
太陽が二つに月が三つ。日差しをじりじり感じるから、太陽は熱を発している。
草原が広がり、空には鳥が飛んでいて、遠くには浮かぶ城がある。これだけ広大で細部まで完璧なパビリオンがあるはずない。
これらの事実から導かれる結論――ここは地下ではない。どこか別の世界に迷い込んだ。そう考えるのが自然だ。頭が変になりそうだった。
「変な質問をして申し訳ないのですが……ここは地球ですか?」
「ええ、地球です」
「日本という国を知っていますか?」
「いえ、聞いたことがありません」
この星は地球。でも、私の知らない地球。日本はない。太陽が二つ、月が三つあって、城が空に浮かぶ。
宇宙には地球と同じ環境の星があるらしい。ケイはその星を地球と呼んでいるのかもしれない。
ケイは日本人の外見と変わりなかった。同じ環境で進化した異星人は私たちと同じ姿になるのか? そんなことを考えていたら、すっかり空が暗くなっていた。
「大きな太陽が沈んできましたね。すぐに夜がきます。大したおもてなしはできませんが、今夜はここに泊まられてはいかがですか?」
「でも、ご迷惑では?」
「いえ。それに、久しぶりに誰かと食事をするのが楽しみです。娘がいなくなってから、ずっと一人でしたから」
娘がいなくなってから――気になったけれど、余計な詮索はすべきではない。愛想笑いしたら、ヨシハルが「お腹空いた」と中に入っていった。別の世界にいるのに、警戒心がなさすぎる。
ケイはヨシハルにほほ笑んだ。悪い人には見えなかった。だからといって、警戒を怠ってはいけない。ここは私の知る世界ではないのだから。
「お茶を用意しますから、そちらでお待ちください」
中はすっきりしていた。小さなテーブルに椅子が四つ。壁には掛け時計が時を刻んでいた。盤面の文字は同じで、針は六時を指していた。スマートフォンの時計と同じ時刻、時差はなかった。
棚の上に置かれた茶色い物体から音楽が流れた。初めて聴く曲だけれど、懐かしい曲調だった。部屋にテレビはなく、スマートフォンを知らない。
この世界の文明レベルは、私の世界よりも少し遅れているようだ。
「これ、ビートルズに似てるよね?」
ヨシハルが弾むように話した。
何の曲かは思い出せなかったけれど、曲調はビートルズに似ていた。
曲が終わると、天気予報が流れた。明日は快晴、最高気温は二十五度。過ごしやすい天候。早朝に出発して、元の世界に戻ろう。
「お待たせしました」
ケイが飲み物を持ってきた。
「ありがとう」とカップを受取った。
ジャスミンティーの香りがした。




