19.マナミ:優しい嘘
手紙の宛先を頼りに、細い道に入った。潮の香りが、車の窓をすり抜けて鼻先をくすぐる。目的の家は、海岸沿いに建っていた。
潮風に晒された外壁は白みが薄れ、どこかくたびれて見えた。
不審者と誤解されないように、スーツを着てきた。鏡で身なりを整えて、車を降りた。深呼吸してから、インターフォンを押した。
“ピンポーン”
しばらく待っていたら、穏やかそうな白髪の女性が出てきた。私は笑顔で会釈すると、丁寧に事情を説明し、手紙を渡した。
「うそ?」
手紙を読み始めて数秒、女性は吹き出した。
「どうしたんですか?」
「いや、今さらそんなこと言われてもね」
女性の頬はゆるんでいた。その横顔はとても嬉しそうだった。
「少し、夫の話を聞いてもらえますか?」
「もちろんです」
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子供たちが就職し、それぞれ家庭を持ち、数十年ぶりに夫と二人だけの生活が始まった。四六時中、夫と顔を合わせる生活は息が詰まるかもしれない。そう考えた女性は、ペットを飼うことを夫に提案した。
「あなたって犬派? それとも猫派?」
「急にどうした?」
「子供たちがいなくなったし、どちらかを飼おうかと思って」
夫は探るように「君は?」と尋ねた。
夫は熟年離婚が増えていると聞いていた。子供たちが独立し、責任を果たした妻は夫に離婚を切り出す。妻の意に沿わないものを選ぶのは避けたい。夫はそう考えた。
「私は犬派かな」
女性はチワワとミニチュアダックスフンドのミックス犬、チワックスを飼いたかった。
「じゃあ、犬にしようか」
夫が同意したことにより、女性はチワックスを飼い始めた。
早朝の散歩が日課の夫は、毎朝犬を散歩に連れていった。チワックスは散歩が好きではない。特に夏場は散歩を嫌がった。気温と湿度が高くてじめじめする。コンクリートは熱い。チワックスが歩くのを嫌がると、夫は抱いて帰宅した。
小型犬のチワックス。しかし、長距離を抱いて歩くのは肉体的疲労が大きい。夫は犬と散歩するために、ペットバギーを購入した。
チワックスは孫に好評だった。孫たちは犬と遊ぶために、家に泊まりに来てくれた。夫と二人の静かな生活が、その時だけは賑やかになった。
旅行に行くときは犬と一緒だった。自動車の後部座席から顔を出すチワックスに、通行人が手を振ってくれた。観光地では、国籍を問わず犬好きの人が寄ってきた。流暢な英語で外国人にチワックスの説明をする夫が頼もしく見えた。
犬と過ごした日々は幸せだった。十年が過ぎたころ、犬は散歩に行こうとしなくなった。夫はペットバギーに載せて外に連れ出したが、帰宅すると犬はぐったりしていた。散歩を嫌がるようになってから半年後、犬は天国に旅立った。
「新しい犬を飼わないか?」
すっかり元気がなくなった女性を見かねて、夫は提案した。
「最後まで看取れるかわからないでしょ」と否定的な女性に、「子供たちが面倒を見てくれる。心配しなくてもいい」と夫は新しい犬を強く勧めた。
こうして、二代目のミックス犬がやってきた。二代目はポメラニアンと柴犬をミックスした「ポメ柴」だった。
毎朝、夫はポメ柴と散歩にいった。
二代目がやってきた翌年、夫は散歩に出かけなくなった。今度は夫の体調不良だった。
散歩に行かなくなって一年後、夫は天に召された。
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女性はポメ柴を撫でながら、私に手紙を見せた。
『実は犬アレルギーだったんだ』
「夫は花粉症が酷かったのだけれど、犬を飼い始めた時期から年中マスクをするようになったの」
「猫アレルギーは聞いたことがありますけど、犬アレルギーですか?」
苦笑いした女性は、ぼんやりと前を見ていた。
犬アレルギーの夫がついた、妻への優しい嘘だった。
「この子が二代目ですか?」
「ええ。ポメラニアンと柴犬のミックス犬、ポメ柴よ」
ポメ柴は庭の木に向かって吠えていた。庭を見回したけれど、誰もいなかった。ひょっとしたら、夫が見ているのだろうか?
「こら、お客さんがいるのだから、吠えないの」
女性が弾むように言うと、ポメ柴は鳴き止んだ。




