10.ハンナ:卵の生物
ハンナは知らない場所に行きたかった。だから、林を城と逆方向に進んだ。
しばらく歩くとレンガ造りの壁があった。遠くまで続く長い壁。空中都市を囲んでいた。壁はハンナの背よりも少し高かった。
「そこの人。帽子をとってくれんか?」
視線を壁の上に移すと、卵の形をした生物がいた。口ひげを生やし、ベストと蝶ネクタイを身につけた卵、足を組んで壁に座っていた。その姿は、まるで絵本から抜け出してきたようだった。
卵はハンナの後ろの木を指差した。
根元に小さな帽子が落ちていた。卵の先端に載せる小さな帽子だった。
ハンナは帽子を拾って卵に渡した。
「助かったよ。ありがとう」
卵はハンナに謝意を示した。彼らはプライドが高い、とポールから聞いた。けれど、礼儀はわきまえているようだ。
「いえ」
「ここから下りて、何かあったら大変だ」
その通り。卵が壁から落ちると割れてしまう。
「見ない顔だね。名前は?」
「ハンナです」
卵に名前を訊こうとしたけど止めた。ハンナは卵の名前を知っていた。
「君はとてもユキに似ている」
「ユキを知っているの?」
「もちろんだ。ユキは私によくしてくれた」
卵は二百年前からここにいる。卵に訊けば、空中都市について知れそうだ。
卵に質問しようとしたら、強い風が吹いた。
卵の身体が傾き、危うく壁の上から転げ落ちそうになった。ハンナは駆け寄り、卵に手を伸ばして、何とか壁の上にとどめた。卵は硬くて、ひんやりしていた。
「気をつけて。割れちゃうじゃない」
「また助けてもらったようだ」
卵は懐かしそうな目で微笑んだ。
「君にお礼がしたい。ほしいものはないか?」
「ほしいものはないけど、知りたいことはある。二百年前の誓約がある、と私はポールに連れてこられた。その誓約について知らない?」
卵は遠くを眺めた後、ハンナに視線を向けた。
「そうだな。私の知る限り、そんな誓約はない。きっと、ポールが君についた嘘だ」
「嘘?」
「ああ、そうだ。ユキはポールに対して、ある要求をした。しかし、ポールからユキに対する要求はなかった。だから、誓約なんて存在しない」
卵は一言ずつ澱みなく言った。ユキに誓約はなく、ポールのみが誓約を負う。
そうだとすれば、ハンナは何のために空中都市に連れてこられたのか?
「誓約がないのなら……」ハンナの言葉を遮って卵は尋ねた。
「家族のところへ帰りたいか?」
母のところに帰りたかった。強盗も出ているのだし、母を一人にするのは心配だった。
そんなハンナの意志を読み取ったのか、「帰る方法はある」と卵は弾むように言った。
「この空中都市から?」
「そうだ。ここの生物はどうやって空中都市に来たか、わかるか?」
「竜が連れてきたのでしょ」
「何千回、何万回も運ぶのか? そうじゃない。ここには地上に通じる門がある。その門を通って生物はやってきた」
卵は壁の一部が欠けている場所を指差した。
卵は壁の上を、バランスをとりながら歩いた。ハンナは卵が落ちないように注意しながら、壁の下を歩いた。
壁の欠けている場所から、外が見えた。風の音、遠くを飛ぶ鳥の鳴き声が聞こえた。覗き込むと街が見えた。街は遥か遥か下にあった。
ハンナは後ずさった。
「怖いか?」
卵は顎を上げ、見下すような目つきでハンナを見た。
壁の内側にいたハンナは、卵の境遇を理解していなかった。卵はずっと断崖絶壁に立っていた。断崖絶壁の上を歩いていた。
「当たり前でしょ。壁の外に落ちたら死ぬ」
「そうだな。当然の反応だ。君は壁の外にだけ注意すればいい。しかし、私にとっては、壁の外も内も同じ。壁の内側に落ちても、外側に落ちても、死ぬ」
卵は声を上げて笑った。卵はいつも命の危険にさらされていた。
「危ないなら、壁から下りればいいじゃない」
「そういう話ではない。覚悟の問題だ。私は命を掛けてこの壁にいる」
卵は両手を広げた。
風にあおられて、ゆらゆら揺れた。卵が落ちないか心配で、ハンナは手で顔を覆いたくなった。
「地上に通じる門は?」
ハンナは話題を変えた。卵の信念をこれ以上聞かされるのは、勘弁してほしかった。
「ああ、そうだった。それが門だ。そこから飛べば地上に帰れる」
卵は壁の欠けている場所を指差した。
そこには何もなかった。突風がハンナの髪を吹き上げ、威嚇していた。
「何もないじゃない」
「君には見えないだけだ。安心しろ、ちゃんとそこにある。それとも、飛ぶのが怖いか?」
卵はハンナを品定めするように目を細めた。
「怖いわよ。怖いに決まっているでしょ。それに、本当に門があるの?」
「信じられないのなら、私が一緒に飛んでやろう。それでどうだ?」
ハンナは口元に手を当てて黙り込んだ。
卵も一緒に飛ぶのなら、門はある。母に会えるのなら……ハンナは小さく頷いた。
「3・2・1で飛ぶぞ」
「うん」
足元に広がるのは空。地面は遥か下。背中には太陽が照りつけていた。
怖い……鼓動が早くなった。汗が額を伝い、手の平が湿った。
「自分で飛ぶのは勇気がいる。そうだ、私が後ろから押してやろう」
卵はハンナの肩に手を掛けた。深呼吸した卵が叫ぶ。
「3……2……1……飛べ!」
ハンナは壁の外に押し出された。
上を見ると、卵は壁に腰かけたまま、ハンナに手を振っていた。
「この高さなら、人間も地面にぶつかって割れるだろう。実に愉快だ」
卵に騙された。この高さから落ちれば死ぬ。
人を簡単に信じてはだめよ、別れ際の母の言葉を思い出した。母の言う通りだった。簡単に卵を信じてはいけなかった。
死にたくない、母に会いたい。騙された自分が情けなくて、涙が止まらなかった。
風が頬を叩き、目尻から涙が吹き飛んだ。視界が回転し、空と地面が交互に見えた。
呼吸ができない……喉が締め付けられる感覚がしたら、意識が途切れた。
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