2ー2.祈りの間
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(うわ、本当になんにもやることがないじゃないの⋯⋯)
神殿に着いて早々、教皇のお出迎えを受けて通されたのは祈りの間。
先代から、何もない部屋だとは聞いていた。とはいえ、さすがに窓から景色を見るくらいはできると思っていた。
しかし、通されたのは白い壁に囲まれた狭い部屋だった。窓はなく、天井に空気の通る穴が開いているだけ。そこにあるのは祭壇らしきもの。以上。
――閉所恐怖症で無くてよかった。
一切の荷物を持ち込むことすら許されなかったため、食物も書物もこの場にはない。あるのは水差しの水および尿瓶のみ。
丸一日、祈りを捧げることだけに集中するため、食事は禁止。用を足すときも、尿瓶を使わなければならない
まるで監獄に閉じ込められた囚人だ。これでは、ますます龍神様に祈る気が失せてくる。
「これは⋯⋯寝るしかない」
そもそも、朝餉も食べておらず、何なら駕籠の揺れで乗り物酔いを起こしていた。
きっと綺麗に掃除されているはず。そう考えた倫花は、紅の衣に皺が寄るのも気にせず、壁と同じく真っ白な床に寝転んだ。
硬い床だったが、ひんやりとした感触が心地よい。だが、心地よいからといって、すぐに眠れるほど寝つきが良いわけではない。悪あがきだと思いつつ、手で目元を覆い、真っ白な視界を遮った。
「は〜⋯⋯」
(あ〜神様、龍神様。この国の繁栄を願いますので、早く私をここから解放して〜⋯⋯)
溜め息が壁に反響するたび、倫花の気分はさらに盛り下がっていく。
少しでも気分を上げようと、歌でも歌ってやろうかと考えたが、すぐに思いとどまった。
万が一の事態に備え、扉の向こうでは神官や護衛が待機している。壁は厚く、外に音は漏れないとは思うが、万が一祈り以外の音が届いたなら、サボっているのがバレてしまう。
(寝れないし、歌もダメ。筆もないから落書きすらできやしない。書物があれば暇つぶしにもなっただろうけど、あるはずもないし⋯⋯髪の枝毛探し? ううん、それは最終手段ね。あ、そうだ、少し身体を動かしたら、眠くなるのかも?)
倫花はおもむろに肩肘をついて身体を起こした。
誰もいないのをいいことに、衣が開けるのも厭わず、そのままの体勢で足を上下させる。
この一年、政務に忙殺され、身体を鍛える時間なんてまったく取ることができなかった。
――いや、時間を作ろうと思えば作れたはずだ。けれど、倫花はそれよりも休息を優先してきた。そのせいか、皇帝候補だった頃に比べて、体力が格段に落ちている。実際、こんな簡単な動きをしただけで、身体のあちこちの関節がボキボキと鳴るのだから。
「九年後、私、立てなくなってるかも⋯⋯」
ついに独り言が口からこぼれた。
任期終了まであと九年――まだ九年もあるのか、と、別の理由で溜め息まで漏れてしまった。
今日の儀式が終わっても、祭事はまだ続く。伝統と言われればそれまでだが、皇帝として民の前に姿を見せる機会があるたび、どうにも気持ちが落ち着かない。
(あれ、待てよ?)
もしかしたら、降儀祭は考えようによっては、皇帝にとってつかの間の休息を得られる日なのではないだろうか。これから忙しくなる時期に備えるための、準備期間としての役割も兼ねているのでは。
ここへ来てから、一分たりとも龍神様に祈っていない。それなのに、こんな都合のいいことを思いつく自分は、国の中心にいる者として、ひたすらに正しいのではないだろうか。
(うん、身も心も休んでいい時間なんだわ。そう思うと、暇だなんて思わなくなってきたかも)
何も難しいことは考えず、心と身体を落ち着けて、何もない時間を楽しむ。むしろ時間が足りない――完全なる発想の転換だ。
横たえた身体のまま再び瞼を閉じると、先ほどまで寝つけなかったのが嘘のように、ほどなくして倫花の意識はすうっと奥底へと落ちていった。
***
心地よい風が頬をくすぐり、倫花はうっすらと目を開けた。目に飛び込んできたのは、紅ではなく、もはや懐かしいとさえ思える栗皮色の髪。その髪が紺の衣の上をさらりと流れているのを見て、ああ、夢かとぼんやりした頭で理解する。
太腿のあたりに重みを感じ、視線を向ける。そこには、おくるみに包まれた赤児がいた。
髪色は自分と同じ栗皮色。すやすやと気持ちよさそうに眠っているので、瞳の色はわからない。
誰の子かだなんて疑問はこれっぽっちも湧かなかった。結婚も妊娠もしたことがないのに、不思議とこの子は自分の子であると確信した。
(変な夢。深層心理で早く家庭を築きたいというのが表れてしまったのね)
縁側に腰掛け、赤児を抱きながら休憩していたらしい。夢の中でまで休んでいるなんて、どれだけ自分は休みたいのだろう。
顔を上げて辺りを見渡すが、見覚えのない景色だった。それなのに、細部まで妙にはっきりしていて、とても夢の中とは思えない。
(私の想像力もなかなかのものね。この子と父親と私で住んでいる屋敷という設定なのかしら)
腕の中の子供を起こさないよう、そっと立ち上がり、部屋の中へと歩を進める。周りには誰もおらず、何の音も聞こえない。
屋敷の造りに目を向けるも、やはり見覚えがない。五冠の家々には、それぞれ独自の建築様式がある。部屋の柱には必ず家紋が刻まれており、樹家であれば地熊の紋がそれに当たる。けれど、ここにはそうした特徴が見当たらない。
他国に嫁いだのか。それとも、家紋を持たない四冠より位の低い家に嫁いだのか。
(ここまで来たら、この子の父親が誰なのか気になるわ⋯⋯)
目が覚める前に、父親――自分の夫は誰なのかを確かめたかった。奥の間に続く襖を開けようとしたとき、部屋に立て掛けられていた姿見に映った自分の姿を見て、思わず目を見張った。
子を産んだばかりとあってか、身体つきは全体的に丸みを帯びている。それはいいとして――
(なんか、老けてない?)
涙袋や目尻には、見覚えのないうっすらとした皺が浮かんでいた。
まるで、十年近く年を取ったような――。
倫花はてっきり、ここは皇帝に選ばれなかった未来なのかと思っていた。けれど、そうではない。自分が皇帝の座を退いた後の未来を夢に見ているらしい。夢の中の自分の顔まで、こんなにはっきりしているなんて。妙に生々しくて、気持ちが落ち着かない。
(尚更、私の配偶者は一体誰?)
子供の容姿からは推測できそうもない。まだ生まれて間もないようで、眠っているのを抜きにしても顔立ちがはっきりしていない。
夢だとわかっている。でも、夢だからこそ、自分の願望がそのまま表れているのではないか。現実では叶わないことも、夢の中でなら味わえるのだとしたら。
彼であって欲しい。
目が覚めてしまう前に――
子を抱いたまま、襖を開けて足早に奥の続きの間へと進んでいく。ここの間取りを知るはずもないのに、身体は覚えているらしい。迷うことなくさらに奥の襖を開けた、そのとき。
「倫花」
背後から名を呼ばれ、振り向く。
夢の中とは思えないほど、心臓が早鐘を打った。
真っ直ぐ向けた、視線の先にいたのは。
***
「うう、いったぁ⋯⋯」
目を開けると、真っ白な床に紅い髪がはらりと広がっていた。
起き上がった途端、身体に鈍い痛みが走った。固く冷たい床で寝ていたせいに違いない。
どれくらい寝ていたのかわからないが、凝り固まった感じから、寝入ってからそれなりに時間が経ったのだろう。手櫛で髪を整え、座った格好のまま軽く伸びをした。
(結局⋯⋯顔、わからなかったな⋯⋯)
なんとなく予感はしていた。誰かわからないまま、覚醒してガッカリしてしまうということに。
ただ、相手は誰であれ、自分は子供を産んで家族を築いていた。夢の中なのにひどくしっくりきていたので、これは是非とも正夢になって欲しいところだ。
ようやく立ち上がり、灯火の残り具合を見ようと祭壇へと近づく。すると。
「へ」
祭壇の壁に、入ったときには無かった文字が、突如として目に飛び込んできた。随分と達筆で、壁にこれでもかとでかでかと書かれている。しかも、その内容が――
〈寝るのはいいが、五分でいいから、お祈りをしろバカ。〉
(うぇっ、お祈りしていないことがバレてる⋯⋯!? え、どこかで監視されてるの?)
キョロキョロと周りを見渡したあと、背中に冷たいものが走った。バチ当たりにもすぐさま床に寝転んで運動までしてグースカ居眠りをしていた。それを一部始終見られていたことになる。
「す、すみません」
誰に向けてかわからないが、一応謝罪の言葉を口にしておいた。
(けれども、誰? もしかして教皇?)
一瞬考えてすぐに取り消した。教皇が、神聖なこの空間の壁にこんな文字を書くとは考えられない。何より、口が悪すぎる。
(バカって、なにさ)
そんな軽口を叩くのは。
(まさか、ね)
頭に浮かんだのは、紫音。しかし、この一年、倫花に対し臣下としての態度を崩さなかった彼が、こんなことをするのだろうか。
わからない。わからないが。
「真面目にやるか⋯⋯」
祭壇に向けて膝を折り、手を合わせる。目を閉じて祈るのは、華火国の平和と繁栄だ。
先の戦の爪痕はまだ深い。軍務卿となった紫音の采配で、復興は驚くべきスピードで進んでいるが、それでも、だ。
戦地に近い農村を慰問に行った際、抉れたままの大地に損壊した民家、怪我を負って治りきらないまま齷齪と働いている民。
目を背けたくなるほど痛々しい現状に、皇帝としてやってやれることの少なさに愕然としたものだ。
(どうか、繁栄とともに、癒しと平和を。私が責任を持って、尽力致します――)
どれほどの時間、祈っていたのだろう。祈りを終え、肩の力を抜いて顔を上げた倫花は、再び目を見開いた。
「⋯⋯なんで」
口から驚愕が漏れた。
目の前にあるのは、ただの白。
先ほどまで白い壁に主張して書かれていた文字が、まっさらに消え失せているなんて。
(どういうこと――?)
ゆらりと灯りの火が左右に揺れた。
それはまるで――
龍神様がここにいると、見えない場所から倫花に告げているかのようだった。




