2ー3.泡沫
ギギギ、と軋む音が反響した。白一色の壁に亀裂が走るようにして、儀式の間の扉が開いていく。ようやく今回の祭事も終わったらしい。倫花の肩から、ふっと力が抜けた。
「皇帝陛下。この度は降儀の儀、誠にお疲れ様でございました」
恭しく挨拶をするのは、教皇猊下だ。
この空間と同じ真っ白な衣を引きずりながら、いつもと変わらぬ、食えない微笑を浮かべている。
皇帝を指名するのは龍神様。そして、そのお告げを聞ける唯一の人間が教皇だ。華火国の神殿は組織として完全に独立しており、皇帝である倫花にも、彼を罷免する権限はない。教皇は不可侵にして、神秘的な存在なのだ。
皺の具合から、それなりに年を重ねていることはわかる。だが、近年まったく代替わりをしていないことから、倫花が想像しているよりもさらに高齢なのかもしれない。
「帰路につかれる前に、御身を清めなさるとよろしい。長丁場お祈りなさっていたゆえ、心身の疲れを癒やして下さい」
「……お気遣い痛み入ります」
まさか、途中で少し祈った以外は、ほぼ寝て過ごしました、などとは口が裂けても言えない。
(でも、この口ぶり……。あの消えてしまった文字を書いたのは、教皇ではない?)
あれから、何か仕掛けがあるのではないかと、祭壇や床から壁に至るまで、しらみつぶしに手がかりを探した。けれど、結局何も見つからなかった。
「あの」
「はい、何でございましょう」
「私がここにいた間、誰か中に入ってきたりしたでしょうか?」
「中へ、でございますか? まさか。ここは儀式のあいだに限り、皇帝しか入れぬ造りとなっております。ほかの者が足を踏み入れることは叶いません」
(儀式のあいだは、皇帝以外は入れない? どういう仕掛けよ)
教皇の後ろには、神殿に仕える警備兵が控えている。儀式のあいだ、彼らが見張っていたから部外者は入れなかった、ということなのだろうか。
「それって、どういう……」
「陛下。お迎えに上がりました」
教皇への問いかけを遮るようなタイミングで、軍務卿――紫音が現れた。昨日と変わらぬ涼しい顔で、臣下の礼をとっている。
本人にそのつもりはなかったのかもしれないが、話を遮られたようで面白くない。
「卿、陛下はこれから湯殿にお連れしようとしていたところ。帰路につくのは、その後でよいだろうに」
「それは失礼しました。では、私が陛下を案内致しましょう」
紫音に手を差し伸べられ、条件反射のように倫花は彼の手をとった。
気を悪くしていたことなどとうに忘れ、連れられるままに儀式の間をあとにした。
***
「ねぇ、案内するって言ったけど、湯殿の場所を知ってるの?」
倫花も紫音も任期一年目。神殿には侍女や侍従を伴えないため、先代皇帝や皇妃に仕えていた頃に、ここへ来たことはないはずだ。それなのに案内するなんて、今さらながら無理ではないかと気づいた。
「ええ、存じ上げておりますよ」
「へ。なんで?」
率直な疑問が口から出たが、紫音は答えようともせず、変わらぬペースで歩を進めていく。
(ああ、また。いつものだんまりか)
臣下になってからというもの、紫音がこうして黙り込むことは珍しくなかった。主君の問いに答えないのは不敬に当たる気もするが、問い詰めたところで、毎回うまくかわされてしまう。
以前は、なぜ黙るのかと問い詰めたこともあった。けれど今は、もう諦めている。その代わり、黙ったまま歩く背中に向けて、溜め息を漏らした。
「かなりの時間、お休みになられていたのでは?」
溜め息に応じるように声をかけられ、倫花は反応が一拍遅れた。
(珍しい)
「なぜそんなことを問うの?」
「お顔に跡が」
「げ」
気付けば腕を枕にして横向きで寝ていたので、片側に跡がついていても不思議ではなかった。残念ながら手鏡は持ち合わせていないため、慌てて顔を隠すようにして手をあてる。
「教皇にもバレてしまったかしら」
「かもしれませんね」
やってしまったと先ほどよりも大きく息を吐いた。祈りを捧げているだけでは顔に跡などつかない。サボっていた証拠に気づいていながら、あえて触れない教皇の優しさが、かえって申し訳なさを募らせた。
「日ごろ忙しくしている陛下が身体を休ませてたことくらいで、教皇猊下も咎めたりしませんよ」
「それでも、間違いなく呆れてらっしゃるわ⋯⋯」
歴代の皇帝の中でも、自分はとりわけ信仰心が薄いほうだと、倫花は自覚している。表には出さないようにしていたつもりだが、今回のことで信者のトップに露見してしまった。
項垂れる倫花を振り向くこともなく、紫音は歩きながら、独り言のように言葉を漏らした。
「――あそこはひんやり冷たくて気持ちが良かったでしょう⋯⋯気持ちがわからないでもないです」
「それって、」
「到着しましたよ」
目の前には竹製の衝立があった。その向こうには、見張り役らしい神殿兵と、湯浴みの世話をする官女たちが並んで立っている。倫花が来ることは、あらかじめ伝えられていたようだ。
「では、ごゆっくり。すべての支度が終わられましたら、またお迎えに上がります」
僅かな引っ掛かりを覚えたものの、倫花を官女に引き渡し踵を返す紫音に、何も言うことができなかった。
(はぁ⋯⋯湯で身体を温めたら、帰り道もまた眠ってしまいそう)
結局、壁の文字を書いのが誰なのかは、わからないままだ。何より、壁の文字はすでに跡形もなく消えてしまったのだからどうしようもない。
それよりも宮殿に戻ってからのことを考えるべきだ。降儀祭で抜けた分、溜まった政務のことを考えると憂鬱になるが、自分にとっての日常が戻ってくることは率直に言ってほっとする。
いまはただ、何にも考えず、湯につかっていたい。
と、そのとき「ぐ〜」と倫花のお腹が盛大に音を立てた。
――今日の朝餉はお腹いっぱい食べれそうだわ。
自称、呑気皇帝の倫花の頭は、すでにお腹空いたという思いでいっぱいだった。
ただ、彼女は知らない。節制を基本とした神殿にご飯が用意されてるはずもなく、結局、昼餉の時間まで何も食べることができないなんて、知る由もなかった。




