1ー3.女帝・倫花と側近と②
いつもだったら、執務室である華の間に大きな声を出しながらずかずかと入ってくるというのに、今日の八千代は黙ったまま、静かに御簾の前へとやってきた。その表情は暗く、どこか不貞腐れているようにも見える。
「どうしたの? 午前中の予算会議の件? 不備でもあった? あ、ちょうど今から休憩しようと思ってたけど、お茶いる?」
普段と様子の違う八千代に対し、なるべく穏やかに声をかけて様子を窺う。彼がこうして用もないのにここへ来るのは、仕事をサボりたいときか、あるいは倫花の休憩時に出される茶菓子のご相伴にあずかりに来るかの二択である。
「……」
八千代は黙ったまま、倫花の近くへと歩み寄る。纏う黒い衣の裾が風に揺れた。
候補者時代は派手な装束を好み、衣の上からでもわかるほど鍛え抜かれた屈強な身体つきをしていた八千代は、この一年ですっかり文官の様相に様変わりしていた。
黒に金糸の縁取りが施された、落ち着いた色合いの衣を纏い、程よく筋肉のついた身体はどこか艶めかしい。短く整えていた灰色の髪は、今では襟足が肩につくくらいまで伸びており、上の部分のみを飾り紐で結わえている。もし昔の彼を知らない者が彼を見たら、武道に長けているとは誰も思わないだろう。
八千代は倫花の前までやってくると、真剣な面持ちのまま、ようやく沈黙を解いた。
「陛下。他国から皇配を見繕っているというのは本当ですか?」
「んン゛っ!?」
まさか彼から皇配云々の話が出るとは思わず、倫花の喉から変な声が漏れ出した。
「答えてください。何故、他国から?」
「いや、それ、今日桃李から言われて、断ったところなんだけど……」
まるで皇帝自らが皇配探しに乗り出したような口ぶりだ。一体どこから湧いて、どこまで、どういう風に皇配の件が出回っているというのだろうか。
「世代交代が落ち着いてきたとはいえ、まだ時期尚早だと思って、」
「いや、時期はちょうどいい頃合いと言えるでしょう。私が確認したかったのは、陛下が相手を他国から迎え入れようとしているということです!」
ダンッ、と勢いのまま倫花と八千代の間にある机を拳で叩き、机が横に縦にぐわんと揺れる。諸々片付けたあとで良かった。墨なんかを出しっぱなしにしていたなら、今頃大惨事になっていたに違いない。
倫花は身体の前に手を出して、どうどう、と八千代を鎮めつつ誤解を解こうと口を開いた。
「ま、待って、私は一切口出ししてないから! それになんでそんなに憤ってるのよ!?」
「相談してくれないからだろう! 茶飲み友達じゃなかったのかよ、俺たちは!」
(いや、私は皇帝で、あなたは臣下なんだけど……)
内心ではそう思いつつ、倫花は正論を飲み込んだ。目の前の八千代が、本気でショックを受けている顔をしているのだから、こちらとしても悪いことをしている気になってしまう。実際、倫花は何もやってないのだが。
「昨日だって、ここへ来てたというのに……皇配なんて言葉を、全く陛下の口から聞かなかったし……」
「うん、人の話ほんと聞かないよね、あなたは。私も今日、桃李から言われるまで皇配なんていう言葉、口にしてなかったからね? それに他国からっていうのも、そういう書簡が届いているっていう、あちらさんからのアプローチなわけで、」
「それで、他国から迎え入れるのか? どうなんだ?」
「ええー……いや、そこは樹家の当主次第かな……うち、分家だし、そのへんの決定権ないっていうか」
「皇帝をなんだと思ってるんだ、樹家の当主は!」
「おおん、次はそっちに憤るの? ほんと忙しいよね、八千代の情緒」
「そんなんどうでもいいんだよ、俺はリンの意見が聞きたいだけだ!」
倫花はここで、八千代が不機嫌そうな顔をしていた理由にようやく思い当たった。
友人である倫花に相談されなくて、拗ねていたというだけだ。
(こう言ってはなんだけど……ほんとかわいいわね)
こんな可愛らしい八千代が財務卿として国の経済を担っているのだから面白い。就任当初、本人以外の誰もが『おいおい、不適材不適所だろ』と思っていた。
けれども、本人の頭はさておき、野生の勘によって最適解だったことが判明した。
八千代は予算案などに不正や間違いがあれば違和感として指摘し、彼の何気ない提案も、“八千代語”から言葉を置き換えれば的を射ていることが多く、一年経った今では財務のトップとして誰もが納得する人材として育っていた。
ただ、仕事と精神面はまた別の話。飽きたらすぐに倫花の元へ暇つぶしに来るのだ。それもしっかり倫花の休憩を狙ってくるのだから、変なところで要領がよかった。
「私としては、まだ何も考えてないよ。これは本当。それで私の本音を伝えたの、八千代が最初だからね?」
まだ八千代にしか伝えていないということに満足したらしい。彼はそれまでとは一転、顔をくしゃりと緩め、ふうっと肩の力が抜けたのが見て取れた。
「そっか。まだ考えてないんだな」
「うん、そう。なーんも。そりゃ、いつかは私も結婚したいと思ってるけどね。家やら立場やらのことを思うと、面倒くさくって」
倫花の口から出たのは、紛れもない本音だった。
“面倒くさい”。
全てはこの一言に尽きる。
倫花としては、利害が一致するなら、三代続けて他国から配偶者を迎え入れるでもいいと思う。ただ、宮廷の保守派、というか樹家の者たちが黙ってはいないだろう。龍神の加護は、華火国の者同士が結ばれることで確固たるものになると本気で信じているのだから。
(国内の者となると、五冠の六家になるのだろうけど)
倫花の従兄弟にあたる樹家の本家の兄弟の一人が、胡家の分家筋の者と結婚したばかりだ。胡家は対象から外れるだろう。
残るは唐、堰、焔、欄の四家だが、唐家の本家の独身者は、学校にも通えない年齢の子供ばかりだ。
堰家は先代皇帝を輩出したとあって、これ以上余計な権力を持たせるわけにはいかないだろう。きっと対象外になる。
欄家は、倫花と年の近い独身者が八千代くらいしかいなかったと記憶している。しかし、彼は嫡男であり、嫁を貰わなければならない立場なので、ここも除外となるはず。
残すところ焔家のみだが――
(焔家だけはない、わね)
倫花はそっと思考を戻し、八千代へ手ずからお茶を入れようと立ち上がった。
「なぁ、面倒だからって、当主から差し向けられた奴を適当に選ぶようなことはやめとけよ」
「え? あ、うん。流石に将来を共にする相手だから、適当に選ぶようなことはしない、と思う……」
倫花の言葉が尻すぼみになっていく。正直、当主が選ぶなら間違いなく身元はしっかりしているし、誰でもいいと思ってしまっていた。それこそ、適当に選ぶことに他ならないというのに。
そんな煮え切らない返事の倫花を見て、八千代はふぅっと息を吐いた。
「どうしてもリンのお眼鏡に適う奴がいないなら、すぐに俺に言えよ」
「ん? 誰か紹介してくれるの?」
「いんや、そんときは俺が娶ってやるから」
八千代の今の発言に、倫花は思わず茶器を落としそうになった。よくぞまぁ、会議前に『議案が通らないなら俺に言えよ?』と言ってきたときと同じノリで、さらりと爆弾をぶち込んできたものだ。
「ソッカー、リョウカイー」
「だから、適当に流すんじゃねぇよ。まぁ、俺たちが婚姻を結ぶなら、互いに任期が終わってから籍を入れることになるだろうけどよ」
ポリポリと頬を搔く姿に嘘は見えない。寧ろ、待たせてしまうことに申し訳なさを感じているらしい。倫花としては、友人にそこまでの迷惑をかけるわけにはいかないため、お世話になる気は全くないのだが、八千代が真剣に倫花の将来を考えてくれていることが、何よりも嬉しかった。
「――ありがとう。八千代に娶ってもらわなくて済むように、ちゃんと考えて行動するね」
ふわりとした笑顔を向けると、八千代はツンと視線を横に逸らした。自分で言っておいて、こそばゆくなってしまったのだろう。倫花は彼の様子を気にせず、お茶の用意に戻った。
だからこそ――
八千代が「伝わらねぇ……」と天を仰ぐようにして呟いていたことなど。
呑気皇帝の倫花が気付くことなど、万が一にも無かったのだった。




