兆し
GC.118.12.24
機関室
低く響く振動が、アストラルの金属床を通じてリサの足元に伝わる。艦内の空気は人工重力と換気システムに守られているとはいえ、微細な振動や熱の揺らぎを感じることは技術者の勘にとって重要だ。リサはタブレットを片手に、炉心の稼働データをひとつずつ確認していく。
温度、圧力、プラズマ密度、磁束安定率……すべて規定値内。炉心の周囲の磁場シールドが青白く揺らめき、まるで生き物の呼吸のように微かに光を変えている。視界の端に映る炉心管の金属光沢は、整然と並んだパイプの屈折光で柔らかい輝きを帯びていた。
「……ふう、順調ね」
リサは小さく息をつき、データ表示をスクロールさせながらさらに細かい項目をチェックする。そこに目が留まったのはニュースフィードの見出しだった。
マース・ユニバーサル・ダイナミクス(M.U.D.)
通称:マッド社
M.U.D. リコール対象: M-BT 型核融合炉にリコール発表。
リサの眉がわずかに動く。アストラルに搭載されている炉もほぼ同系列である。もっとも、マッド社によれば「アストラルに搭載されているのはリコール対象外であり、安全性に問題はない」とのことだった。
リサはタブレットを操作しながら、アストラル搭載炉の現状データを確認していた。
「今のところ異常兆候はない…」小さく呟く。
それでも、ふと眉をひそめる。
「どうせあの腹黒マッド社よ。民間用にはリコール出しても、軍用にまで広げたら大問題になるとか考えでしょ。だいたいこの型の融合炉が導入されたのはもう何年も前の話じゃない。どうせ問題が発覚して対策考えるのに事前にいろいろ根回してたんでしょ。奴らがやりそうなことだわ」
リサは視線を窓越しに広がる宇宙空間へ向ける。冷たい真空が広がる中、アストラルは静かに航行している。しかし、そんな平穏の裏に、企業の巨大な力と、その複雑な政治構造が渦巻いていることを彼女は知っていた。
マッド社は火星で創業50年。掃除機から戦艦までを手がける総合技術企業として、火星の科学技術の最前線を走る。宇宙船や核融合炉に至るまで、全ての製品において世界トップクラスの技術力を持つ。その技術者にはリサの知る友人が多く在籍している。皆優秀なのよね。しかし……。
「まぁ大企業になると必ずね……こういう政治的判断が出るのよね」
リサの声は低く、独り言のように響いた。大企業では、現場の声が上に届く前に、政治的判断や数字合わせが優先されることが少なくない。優秀な技術者がどんなに努力しても、組織の中で計算や駆け引きの歯車のひとつになってしまう。
それを理解しているからこそ、リサはマッド社の製品を信頼しつつも、盲目的には信用しない。データを確認し、異常がなければ現場で慎重に管理する。それが彼女なりの安全策だ。
タブレットの画面に表示される炉心の数値は、今日も静かに、しかし確実に安定している。圧力、温度、磁束……全てが規定内。異常はない。だが、リサは手を緩めない。
「今は異常なし……でも、艦長とイグナスには言っておかないとね」
手元のタブレットを操作しながら、各制御システムのログを確認する。冷却ポンプの作動状況、予備電源の稼働状態、プラズマ制御コイルの温度変化……全て目を通す。目視とタブレットのデータを併用することで、炉心の状態を把握するのだ。
リサはふうと息を吐き、タブレットを膝に置きながら炉心を見つめた。青白い光が反射し、彼女の冷静な横顔を照らす。薄暗い機関室の中、制御盤や計器のランプが小さく点滅し、静かな緊張感を生み出していた。
「今は異常なし……でも、色々想定しておくのがプロってもんよ」
独り呟きながら、タブレットの画面に映る数値を一つ一つ確認していく。
GC.118.12.25
ブリッジ
「と、いうわけで」
リサはタブレットを手に、艦橋のタリアンと副艦長のイグナスに報告を始めた。
「アストラルの核融合炉、リコール対象になっている型式とは同じだけど、今のところ異常はないわ。ただ、問題が起きるとドッグじゃないと直せないの。そもそも核融合炉のメンテナンスはドッグでないとできないわ」
タリアンは眉を寄せる。
「そんなに深刻なのか?」
「そんなことないわ」とリサは肩をすくめた。「ただ、念のために監視しておくだけ」
タリアンは少し呟くように言った。
「それにしても、アストラルのエンジンもマッドのやつだったのか。俺のタブレットもマッド製だぜ」
イグナスは淡々と返す。
「マッドは大企業ですからね。ありとあらゆる物に関わっている。ちなみに、俺の父もマッドの社員でした」
タリアンは小さく笑った。
「さすがマッドか。それにしてもいつ聞いても悪そうな名前だよな」
リサはタブレットを手に、艦橋の二人に視線を向けた。
「最悪の場合は機関停止もあり得るけど、たぶんそうはならないと思うの。ただ、なるべく早くドッグに入るべきね」
イグナスが眉をひそめる。
「火星まで戻る必要はあるのか?」
「そこまでは必要ないわ」とリサ。
「大きめのドッグがあれば十分。規模さえ合えば、整備は問題なくできるわよ」
イグナスは少し考え込み、静かにうなずく。
「そうすると、予定航路を少し外れることになりますね。どちらにせよ、一度補給などを受ける必要がありますので、寄港案には賛成です」
リサは画面の数値を眺めながら、穏やかに返す。
「分かったわ。それなら航路変更も問題なさそうね」
艦橋に一瞬の静寂が流れ、タリアンとイグナスは次の行動を思案していた。




