31
遠くで、サイレンの音が鳴っている。
夜の港に、細く長く伸びる音だった。
だが、その場所から少し離れた倉庫の屋根の上で――
男が静かに銃を分解していた。
長い銃身。
黒いスコープ。
ボルトを引き抜き、布で丁寧に拭く。
油の匂いがわずかに漂う。
その手つきには、迷いがない。
何度も繰り返してきた動作だった。
やがて男はスナイパーライフルをケースに収めると、
何事もなかったかのように立ち上がり、その場を離れていく。
深夜の屋根。
風が強い。
足場も悪い。
普通なら、歩くだけでも慎重になる高さだった。
だが男は、迷うことなく進んでいく。
ほとんど走るように。
その目は青かった。
暗闇の中でも、まるで昼間のように周囲を見通している。
夜でも見える目。
それが、男の能力だった。
背は低い。
細い体。
だが、その動きには奇妙な軽さがあった。
やがて男は倉庫裏に停められた白いバンの前で足を止める。
後部ドアを開ける。
その瞬間――
海の方から、小さな漁船が近づいてきた。
タイミングは、まるで計ったかのようだった。
男は何も言わない。
船から降りてきた数人の人影も、何も言わない。
無言のまま、ケースを受け取り、次々と船へ積み込んでいく。
中身は――金。
NOPUR HEALで稼いだ金。
十二億。
重いはずのケースが、次々と運ばれていく。
作業は数分で終わった。
エンジン音。
男は最後に船へ乗り込もうとした。
その拍子に――
バリッ。
黒いシャツが、どこかに引っかかった。
布が破れる。
男は一瞬だけ呆けたが、気にも留めない。
漁船はそのまま、闇の海へと滑り出していく。
港の灯りが遠ざかる。
静けさが戻る。
その時。
男の口から、かすかな鼻歌が漏れた。
「楽園へ連れてゆく♪」
破れたシャツの隙間から、胸元がわずかに覗く。
そこに刻まれていた。
牡牛。
蛇。
獅子。
さまざまな獣が絡み合い、ひとつの姿を作っている。
キメラのような紋様。
――テュポン。
それは。
冥星教団の狂信者が好んで刻む刺青だった。
漁船は、ゆっくりと夜の海へ消えていく。
まるで、何事もなかったかのように。
白い天井。
規則的な電子音。
消毒液の匂い。
ゆっくりと、明は目を開けた。
視界がぼやけている。
天井のライトが、にじんで見えた。
「……」
声が出ない。
喉が、ひどく乾いている。
体を動かそうとすると、腕に違和感があった。
点滴。
透明な液体がゆっくりと落ちている。
そして――
足。
動かない。
重い。
感覚が鈍い。
そのとき、ようやく気づいた。
(……病院か)
ぼんやりとした思考の中で、状況が少しずつ戻ってくる。
そのとき。
椅子がガタンと鳴った。
「……明?」
震える声だった。
明はゆっくり視線を動かす。
ベッドの横に、良子が立っていた。
数秒。
二人は、何も言わず見つめ合う。
信じられないものを見るような顔。
そして良子は――
顔をぐしゃぐしゃにして笑った。
「明……よかった……」
声が震えている。
涙が止まらない。
「ほんとに……よかった……」
ぽろぽろと涙が落ちる。
明はその顔を見て、ようやく理解した。
(……良子が)
(生きている)
胸の奥に詰まっていたものが、一気にほどけた。
明の目からも、涙がこぼれる。
「……お前こそ」
声がかすれる。
「大丈夫か?」
良子は答えない。
ただ静かに、首を縦に振る。
そして――
そっと、自分の腹に手を当てた。
明は、その仕草を見て言った。
「良子……」
良子の顔が赤くなる。
次の瞬間。
その表情は、ゆっくりと喜びに変わっていった。
自分たちは、あの事件を生き延びた。
A県某所。
山に囲まれた道を、一台の車がゆっくりと登っていく。
エンジンの音だけが、静かな山に響いていた。
やがて車は止まる。
そこにあったのは――
鳥居。
だが普通の神社のものとは違う。
柱が、わずかに歪んでいる。
どこか奇妙な形。
見ていると、理由もなく落ち着かなくなる。
車のドアが開く。
小柄な少年、袋正義が降りる。
杖をつきながら、ゆっくり立ち上がる。
不自由な足。
だが、表情は前よりも少しだけ強くなっていた。
母親が後部座席から荷物を取り出す。
「正義、気をつけていってらっしゃい!」
明るく言う。
だが声が、少し震えている。
正義は制服の襟を直した。
荷物を受け取る。
そして言った。
「行ってきます」
家を出るときにも言った言葉。
それなのに。
ここでも、なぜか口にしてしまった。
正義は杖をつきながら歩き出す。
鳥居の前で立ち止まる。
少しだけ空を見上げた。
そして
――拝啓 兄さん。
あれから、特殊課の人が来ました。
検査の結果、僕はこの特殊学校に入ることになりました。
兄さん。
詳しくは話せないけど、
僕は今、元気です。
兄さん、ありがとう。
それから――
この前、アリスさんに会いました。
兄さん。
がんばってください。
正義より。
正義は一歩踏み出す。
鳥居をくぐる。
その先には、大きな施設が広がっていた。
A県警本部、部長室。
机の向こうで、田所修三が深いため息をついた。
「はぁ~……君ね」
書類を指で叩く。
「早すぎるよ」
呆れたように言う。
「本当はここで頑張ってほしかったんだけどねぇ」
視線を上げる。
「それでも行くのかい?」
袋寛治は、迷わなかった。
腹はもう決まっていた。
「……はい」
短く答える。
田所はしばらく寛治を見ていた。
やがて肩をすくめる。
無言で、書類に判を押す。
そして――
「あそこの連中は変わり者ばかりだ」
少し笑う。
「うまくやれよ、袋」
噂があった。
誰もいない階がある。
職員名簿にも載っていない。
案内図にも存在しない。
だが確かにある。
そこへ行くには――
特殊な呪いが必要だった。
寛治は静かな廊下を歩く。
古びた扉の前で立ち止まる。
手にしているのは、あの手錠。
能力者を封じる呪いの手錠。
それを扉に触れさせる。
カチリ。
小さな音。
扉が、ゆっくり開いた。
部屋の中には、数人の人影。
寛治は一歩踏み込む。
そして言った。
「おはようございます
今日からこちらの特殊課に着任しました」
袋寛治です。よろしくお願いします」
その日。
特殊課の新しい事件簿が、開かれた。
後に、それはこう呼ばれることになる。
ゾディアック Files。
袋寛治の記録である。
特殊課
事件記録報告書
案件番号:ZODIAC-01
暫定事件名:アリエス事件
管轄:A県警察本部 → 警視庁特殊課引継案件
作成者:特殊課捜査員 袋寛治
機密区分:内部資料(特殊事案)
事件概要
本件はA県某市において発生した連続殺人事件であり、
主要容疑者である水沼竜司および水沼伊奈による犯行とみられる。
事件現場において通常の火災・殺害とは説明困難な燃焼痕が確認されており、
容疑者水沼竜司に**異常燃焼能力(通称:発火能力)**の可能性が認められるため
本案件は特殊課による管理対象事件として記録する。
第一被害者
氏名:水沼絵里
続柄:水沼竜司の義理の姉
発見場所
A県某市 郊外空き地
死因
撲殺
遺体状況
頭部以外の全身が強い火災によって焼損
顔面のみ原形を保つ
胴体・四肢は炭化状態
通常の火災では説明困難な局所燃焼が確認されている。
被害者の背景
被害者水沼絵里は
地下売春組織
「NOPUR HEAL」
と呼ばれる違法組織に関与。
同組織は
未成年売春
人身売買
違法薬物流通
などの犯罪行為で収益を得ていた可能性が高い。
被害者は同組織において
未成年売春の斡旋役として多額の利益を得ていたとみられる。
重要参考人
以下の人物が事件関係者として事情聴取対象となった。
山本若葉
江口良子
鍵沼カナ
いずれも被害者および容疑者と接点が確認されている。
第二の事件
事件捜査中、
A県某市アパートにて火災が発生。
現場は水沼竜司の居住アパートであり、
焼失した室内から焼死体が発見された。
遺体の状態は極めて激しい焼損状態であり
通常の火災事故とは断定できない状況であった。
被害者
氏名:渡永人
誘拐事件
捜査の過程で
重要参考人 江口良子 が何者かにより拉致される事件が発生。
犯人は水沼竜司と推定された。
しかしその後、
江口良子は生存状態で発見・保護された。
事件の顛末
水沼竜司
水沼伊奈
両名は何者かによる遠距離狙撃を受け重傷。
その後両名は海上へ転落。
遺体は確認されていない。
現在の状況は
生死不明
と記録する。
特殊事象
本事件では以下の異常現象が確認された。
容疑者
水沼竜司
に関して
対象物を燃焼させる能力
が複数証言および現場痕跡から確認されている。
本能力は自然現象では説明不能であり、
特殊課では
能力者
による犯罪の可能性が高いと判断する。
結論
本事件は
家族間の怨恨
違法売春組織
特殊能力
が複雑に関与した特殊犯罪事件である。
本事件を暫定的に
「アリエス事件」
と命名し
警視庁特殊課の管理事件として記録する。
補足
冥星教団の関与が疑われるが
現時点で証拠不十分のため
継続調査案件とする。
警視庁特殊課 捜査員
袋寛治




