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「……袋。気をつけろよ」


背後で状況を見ていた寛治が、静かに動き出す。

右手に握っているのは、古びた手錠だった。


丸い輪が二つ。

それを短い鎖がつないでいる。


だが普通の手錠ではない。

金属の表面には、びっしりと梵字が刻まれていた。

寛治には読み取れない文字だ。


しかも、妙に重い。


――車で現場へ向かう途中。

金田はその手錠を寛治に渡しながら言った。

「俺じゃ力で負ける。袋、お前が掛けろ」


真剣な目だった。

「ただし相手は能力者だ。必ず、相手に触れながら掛けろ。

それだけで能力の出方が鈍る」


そしてスリングショットを持ち上げる。


「奴が変な挙動を見せたら、遠慮なく撃つ」


革のゴムを指で引きながら、金田は続けた。

「こいつでも人は殺せる。

特殊事件じゃ、その場でエリミネートも許されてる」


少しだけ笑う。

「まあ、俺はやったことないがな。

今回も、そんな状況にならなきゃいいが」


そして最後に言った。

「袋。相手の動きの“違和感”を気にしろ。

本能でいい。能力者相手は知識じゃねぇ」


視線が鋭くなる。

「人間の本能が“肝”だ。

ヤバいと思ったら、従え」


――そして今。

通路を寛治は進んでいた。


歩いているのか、

小走りなのか、

自分でも分からない。


緊張で体が震えている。


壁に背を向けて立つ竜司。

そこへ近づくたび、汗が全身から噴き出した。


手錠を握る手に力がこもる。


そして――


「水沼竜司さん。あなたを現行犯逮捕します」

声を発した瞬間。


竜司の手が、ゆっくりと動いた。


振り向いていない。


それでも――

寛治を捉えるように指が、歪んだ形を作る。


“λ”


その瞬間。


違和感。

――ヤバい。

刹那。


ぼわっ。


寛治の体が燃え上がった。

「うあっ!」


大きくのけぞる。

その反動で、体が後ろへ跳ねた。


――その瞬間。


ヒュッ!!


何かが、二人の間を突き抜けた。


キンッ!!


金属が弾け、火花が散る。


「離れろ袋!!」

金田の怒声が響く。


「どこからか狙撃されている!」


その弾は、金田のものではなかった。


寛治の体の炎が弱まる。

右胸のポケット。


そこに忍ばせていたお守りが、

代わりに燃えていた。


紙が焦げ、灰が舞う。


「……っ!」

寛治は転がるように竜司から離れる。


チィンッ!


チッ!


再び弾が壁を叩く。


火花が散る。

「くそっ!」


寛治は逃げるように走った。


金田とは反対方向へ。


その瞬間――


「ぎゃはははは!!」

竜司の笑い声が港に響いた。


寛治の視界に、金田が映る。


「うぉっ!」

次の瞬間。


ぼっ。

金田の体が燃え上がった。


「……っ!」


寛治の背筋が凍る。


(まずい……初動に失敗した)


竜司は、余裕の笑みを浮かべていた。


その顔が――


次の瞬間、歪む。


「きゃああああああ!!」


伊奈の悲鳴が、夜の港に響き渡った。


悲鳴とともに、伊奈が崩れ落ちた。


「伊奈!」

竜司が駆け寄る。


助け起こそうと、その体に触れようとした瞬間――


パンッ。

竜司の体が大きくのけ反った。


胸元に、赤い染みが広がる。


寛治は目を見開いた。

(……なんだ?)

狙撃は、まだ続いている。

(狙撃犯は、竜司の味方じゃないのか……?)


伊奈が血を吐きながら、竜司を見上げた。

「竜ちゃん……」


焦点の合わない目。


竜司はよろめきながらも、伊奈のそばに膝をつく。


伊奈はうわ言のように呟いた。

「楽園……」


その手が、竜司の手を掴む。


「楽園……」


その瞬間。

寛治は目を疑った。


伊奈の手が――変わる。

若い女の白い手。

それが、みるみるうちに萎びていく。


皮膚がたるみ、血管が浮き、

年老いた手へと変わっていく。


顔も同じだった。

さっきまで二十代の面影を残していた顔が、

ゆっくりと老女の顔へと崩れていく。


竜司は、その手を握ったまま動かない。


「……寂しかったよ」


声が聞こえた。


竜司の顔が歪む。

(……この声)


それを聞いたのは――

刑務所だった。


初めて、伊奈に面会した日。

なぜ自分はあそこへ行ったのか。


当時、伊奈が水沼義男を殺した事件は、

世間では同情的に扱われていた。


だから刑期は軽かった。

だが、誰も知らない。


伊奈がどんな人間なのかを。


施設の先生が言った。

「竜司くん。一度、お母さんに会ってみない?」


その一言が始まりだった。

竜司は思った。


会ってやる。

そして罵倒してやる。


義男と共謀し、

実の父を殺した女に。


刑務所に入ったとき、声が聞こえた。



「さみしかった」



その声は。年齢も。

性別も。

合っていなかった。


(……あれ?)

竜司は思った。

(変だ)


面会室の向こうに座っていたのは、

若く、美しい女だった。


――綺麗だ。


そう思った瞬間。

竜司の視界が揺れた。


現実に戻る。

そこにいたのは。

しゃがれた顔をした、本当の伊奈だった。


伊奈が竜司を見つめていた。

「竜ちゃん……」


老いた顔で笑う。


「楽園……

もう誰もいない」


「貴方と、二人」


「永遠よねぇ……」


伊奈は竜司の手を強く握った。

「連れていって」


竜司の口から声が漏れる。


「ああ……」



「楽園」



次の瞬間。


ぼわっ。


炎が噴き上がった。


伊奈と竜司の体が、炎に包まれる。


「な……!」


寛治が叫ぶ、近づこうとする。


だが。


熱。


凄まじい熱が通路を満たす。

一歩も近づけない。


狙撃が続く。


パンッ。


パンッ。


弾丸が飛ぶ。


竜司に届く前に――

熱で歪み、落ちる。


遠くで。

舌打ちが聞こえた気がした。


竜司は伊奈を抱き上げる。


燃えながら。


ゆっくりと歩き出す。

埠頭へ


寛治は必死に近づこうとする。

熱で進めない。


「竜司ーーーーー!!」


寛治の叫びが港に響く。


だが竜司は振り向かない。


炎の中。


海へ向かって歩く。

その時だった。


どこからか――歌が聞こえた。


夜を越えて

君と行く 海へ


寂しさは

火の道しるべ


手を離さないで

世界が終わっても


星の星が

楽園へ連れてゆく


――歌。


寛治の耳に、不思議なほどはっきりと聞こえた。

歌っているのは、竜司だった。


伊奈を抱きかかえたまま、炎の中を歩いていく。

ゆっくりと。


まるで導かれるように。


薄暗い通路の先、埠頭の端へ。

炎が夜風に揺れる。


熱で空気が歪み、煙が立ち上る。

寛治は歯を食いしばり、一歩踏み出す。


だが近づけない。


熱。


息を吸うだけで肺が焼ける。

竜司は歩みを止めない。


歌いながら。

腕の中の伊奈は、もう動かない。


竜司が埠頭の先端に立つ。

そこで、ふと振り向いた。


寛治と目が合う。


炎の向こう。

その目は、不思議なほど静かだった。


怒りでもない。

狂気でもない。


ただ――

どこか安らいでいるような目。


次の瞬間。


ドボン。


二人の体が海へ落ちた。


水柱が上がる。


燃えていた炎が海面に広がり、ゆらゆらと揺れる。

すぐに煙が立ち昇る。

恐ろしいほどの量の煙。

熱で巻き上がり、夜空へと伸びていくλの形をしながら。


海面は黄金色に染まる。


寛治は動けなかった。


ただ黄金色の海を見ている。

寛治はそれを見つめたまま、静かに呟いた。


「……捕まえられなかった」


遠くから――

サイレンの音が……

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