173.″狗″の言葉⑬ -″狗″の言葉、彼女の言葉-
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「なのに自分の素性なんて、何にも知らないから姐さんは優しくて! ゴミみたいな自分のこと、大事なものみたいに扱ってくれて! センパイは、結局拐われちゃって!」
「う、ん……」
何とか受け入れて頷きながら、けれど彼女の声も重苦しくなる。だんだん、事の重大さが彼女の胸に突き刺さってきた。
本当に、どこで間違えてしまったのだろう。
(ワタシが、ハナトくんのために眇目くんと関わろうなんて思わなければ? 彼を仲間するなんて結論に至らなければ……?)
そうしたら、この少年はこうはならなかったのもしれない。
けれどあの夜、眇目を掬い上げなければ、ニカナグは結局、小柄の思いなんて知らず、やっぱりいつかは無邪気に彼の望郷を踏みにじっていたかもしれない。
そこにまで思い至ったとき、ニカナグの胸は苦い自責の念にギリリと締め上げられた。
「……自分、命燃やして、姐さんとセンパイの役に立って! グスッ、このまま山の掟に従ってあの場所に還れたら、とても、とても幸せだと思ったのに――!」
小柄はぼろぼろ泣きながら、彼女を恨めしそうに睨んでいる。叫んでいる。
「――なんで。ずっとあの瞬間が、いつか来るって信じて、待ってたのに! なんで、どうして、生かしたんッスか?!」
「どうしてっ、て……、そんな……」
まるでナイフで心臓を切り裂かれているようだった。ニカナグは肩をすぼめて震える。
「……君に、生きていてほしい、じゃ……、ダメなのかい……?」
けれど問いには、失望したような表情がふるふると頭を振った。
「姐さんなら……、犯した罪の罰として奴隷にされた人は、もうそれ以外のものにはなれないの、知ってるんじゃないッスか……?」
「それ、は……」
事実だった。
それ以上は返せない。無言はすぐに肯定へとすり変わり、掠れた重苦しい声が、その上へ波紋のように広がっていく。
「ご主人サマ……、お願いごとと別に、姐さんとの仕事が上手く終えられたら、待遇も改善するって約束はしてくださってましたけど。
……アレは、全部終わったら、今度は自分のこと、ハリバ警護長の下で、″影″として働いてもらおうと思ってるってはなしを、初めにおっしゃってて――」
「か、げ……」
ソルスガとの会談帰りに見た、鴇色の夕焼け。屋敷の庭で、血濡れのスカートを翻していた名も知らぬ女の横顔が、記憶の端に一瞬浮かんだ。
しかしニカナグには、その話だって初耳だった。
目前の小柄は痛々しく微笑っている。
「――結局自分は、どんなふうに頑張ったって、一生、どこにも……」
その声音に潜むのであろう思いは、あまりに重たかった。
食らいつけるような言葉を、ニカナグは持たない。
ただただ、沈黙が横たわっていく。
そんな、膠着したままの彼女の胸をふと、大叔父に語られた言葉の群れが通りすぎていった。
『……ニカナグちゃんよ、こういうのは初めてか?』
『え……?』
『奴隷私兵てえのはなあ、少なからずこういうヤツらだ…………こっちの思いやりが通じねえ、分かり合えねえこともよくある。うちに置くのは構わんが、それなりに気遣ってやれよ?』
(あ。……あ、あ……)
刹那、やっと気付く。
この少年が抱えてきた、凄絶な望郷。
笑いかけてくる屈託のなさの下にずっといた、奴隷としての傷。
彼は良い子に違いないと思い続けてきた。同時に可哀想な子だと気遣ってきたつもりだった。
でも結局、ニカナグは彼の本質を見なかったし、深く気にして来なかった。
そんな振る舞いと言葉だけで彼に接した。ダカントラが言ってくれた言葉の真意さえ深く考えようとしなかった。その結果が今、ここまで小柄を追い詰めた。
人に興味をもつこと。
できうる限り優しくすること。
――――ではこの二人の置かれた立場を、ニカナグが一度だってこの二人の目線から考えたことはあったか。
「~~~~~~ッ!」
彼女は思わず両手で顔を覆う。鼻の奥から深く、声に出さぬまま漏れる叫びを押し殺した。
やはりなにもしらぬまま、ニカナグはふみにじるのだ。
『――それとも、哀れな道具に優しくして、気持ちよくなりたいの?』
そうしてこんなときに限って、あの眇目が彼女に吐きつけていった罵詈雑言が、嘲笑が、いくつも胸を駆け巡っていく。
(――今度もそうだ。私は、ずっと無知だ。嫌いだ。大嫌いだ。こんな自分なんて……)
胸を鋭い爪で掻きむしられるようだった。
けれどどんなに落ちぶれても、皮肉にもたった一つだけ、彼女の中に色を変えずに在り続ける思いはあった。
それはニカナグがまだ性懲りもなく、この少年を救いたいと思い続けているということだ。
たとえ謗られ罵られようとも、そこだけは誰にも踏みにじられたくなかった。人が人を思う精神までが悪なんて、そんな馬鹿げた思想、ニカナグは絶対に認められない。
いま思えばあの片目の男はずっと、『自分を道具として使い潰せるか』と、とても捻くれた言葉でその覚悟を――――そこだけを、ニカナグに追及していた気がする。
支配し、支配される。
それはもしかすると、彼が唯一、警戒せずに人と関われる在り方だったのかもしれない。
そうやって眇目はこの少年のことも使い捨ての駒として転がし、結局、小柄自身もその『檻』に閉じ込められたまま逃げられずにいるのだろう。
(こんなの……本物の『呪い』より質が悪いじゃないか……)
しかし、人に関心を持つこと。出来うる限り優しくすること。
ニカナグはそれを胸に変わろうとして、結局何一つだって変われてはいなかった。
トルタンダの山のこと。遠く祖国からここまで逃げてきたこと。
ハナトのこと、彼女を拾った二人のこと、眇目のこと。
……目の前の、この少年のこと。
捕まらぬよう逃げて逃げて、逃げて、たどり着いた結末がこれなら、もう腹を括って立ち向かうしか、道なんてないではないか。
ニカナグはうつむいた視界の下で、膝に下ろした両の拳をギュッと握った。その手の震えに、握りしめた大切な首飾りが『チャリ……』と鳴った。
まだ少し迷いもある。恐怖もある。ニカナグは顔を上げて、どこかすがるように、小柄へと視線を彷徨わせた。
(いや……)
だめだ。
救いたいと願うなら、この少年の優しさに、これ以上無自覚なまま付け入ってはいけない。
中途半端に誰かの横をすれ違うだけで、勝手に助けた気になるのはもう終わりにしよう。
これは全部、ニカナグのエゴなのだ。最初から最後まで、全部エゴでしかないのだ。
だからこの想い一つ受け取って貰えないのなら、ニカナグはもう彼女の言葉ではなく、彼ら″狗″の言葉でこの少年に語りかけるしかない。
「なら、ワタシとの仕事がぜんぶ終わったら、ソルスガさまへの願いごとに、君はこう言えばいいさ――」
だから次に小柄の潤んだ目がこちらを見たとき、ニカナグはもう、怯まなかった。
痺れる指先を胸に当て、毅然と口を開く。
「――ソルスガさまの奴隷じゃなくて、ワタシの奴隷になりたい、って伝えるんだ。
ワタシは君を、簡単に死なせたくない程度には道具として気に入ってる。その弓の腕も、獣負いの技術も、あと、知らない人とすぐ仲良くなってしまうのも、交渉役として最適なんだ。
……だから、この先もワタシの助手として、……いや、『道具』として、ワタシの傍らに侍ってくれないかい?」
その瞬間、小柄の濡れた双眸はこれ以上ないほど見開かれる。
「……あっ、あっ、それから、ついでに約束通り字も覚えてくれたら、もっと役に立って嬉しい。……どう、かな?」
「……姐……さん……」
「う、うん……?」
でもやはり柄にも無さすぎて、締め括りは素がでてしまう。
それでもおもむろに、小柄は自由の利かない身体を動かし始めた。
何をするのかと慌てるニカナグが思わず身体を支えると、彼はへへッと照れたように笑いながら、静かにそこへ片膝をついた。
取った姿勢は、恭順の礼――奴隷身分にとっての最敬礼だった。
「……自分、今日のこと、忘れないッス。一生付いてくッス。カナイ……いや、ニカナグ姐さん」
下を向く小柄、立て膝で見下ろすニカナグ。
視線は、合わない。
けれど多分、思いだけは歯車のように噛み合い、回りだしていた。
ずびりと鼻をすする音。
ニカナグは一拍、自分の鼻から抜けていく吐息に、溢れてくる不安と愁いを全部押し付ける。
「――……うん。ちゃんと役に立つんだよ……?」
それから深い海の瞳で、どこか切なげに微笑んだ。
―――これで良かったのか、なんて、きっとこの先も解らないままだ。
ただ、小柄の肩を支えながら、ずっと彼女の中に淀んでいた思いが新たな決意に形を変えていくことだけは、確かなのだった。
次の更新は 10月27日(火) 22:10~22:20の間くらい(手動更新)です。




