171."狗"の言葉⑪ -掬い上げたは正か誤か(下)-
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森の木々を騒々と風が揺らす。
耳に滑り込んで来るのは、一言一句外さず揃う妖魔二匹のあの声。密やかに艶やかに笑っている。
物質的な移動の気配は一切なかった。
こんな例、ニカナグだって始めて見聞きする。
それに音がしていたなら、もっと早くに耳長族の彼の方が気付いていたはずだ。
ニカナグが目を見開く時には、もう眇目の背後にはあの妖魔の片割れと、そして今倒されたものと同種の〈四ツ足禽〉が顕現していた。倒したばかりの異状体より一回り大きいそれの首筋を搔きながら、赤いリボンのハリが口を開いていた。
「間に合ったわ、良かったわ、ジョセ」
すると同じ声がもう一つ、ニカナグの背後から無邪気に聞こえてくるのだ。
「そうねハリ。それにジョセは、その仔のためにとても頑張ったもの」
「ヒッ!?」
「そうよ、ジョセはとっても頑張ったわ。だからコレならきっと、怒られないわ」「そうよね、怒られない」
双子の意味ありげな物言いには一瞬だけ引っ張られるが、正直今はそれどころではない。
「……あらあなた、変な気を起こさない方がいいわよ」
ニカナグの背後でジョセが微笑む。削り刀から脇の剣へと手を滑らせた、眇目の動きに反応したのだ。
すると眇目に絡みつくハリの腕も、虫の脚を思わせるような暗色の刃にぐにゃりと変形し、背後から彼の喉首に突きつけられた。
「ほら、あなた、その剣は二本とも向こうの茂みに捨ててちょうだい? ハリもジョセも痛いのは嫌なの」
「それに、ねえ、ジョセもハリもあなたを『読んだ』から知ってるわ。このゴミ女のこととっても嫌ってるけど、死ぬととっても困るのでしょう?」「そうよ、あなたも死にたくないって思っているでしょう?」
(『あなたを読んだ』……って? ……まさか記憶のことを言ってたり……??)
うふふふ、と広がる無邪気でおぞましい笑いの輪。妖魔には〈天賜〉以上に特殊な能力を持つ者もいるときく。人の心を覗きに来る者がいてもおかしくない。
ニカナグはいやな推察にひとり背中を凍らせる。そこへ確かに一つ、チッと舌打ちが混ざった。
そのまま彼は忌々しげに唇を噛みながら、削り刀も花蔦の剣も、言われた通りに遠くへ放る。
それはこの世で最も横暴な耳長の、服従の意思だった。
ニカナグはそれを、どこか現実離れした光景として視界に収めている。
双子は、そのまま為す術のない三人を前に弾んだ声で会話を始める。
「ねえ、どうしましょうジョセ。死にかけは食べやすそうだけど、これは食べたらダメって決めたヤツよ」
「そうねえ。こっちはギリギリ食べてもいいかもしれないけど、噛むから嫌だわ」
「ええ、このゴミ女、変な魔力の塊も持っているし、片目耳長の目が見てた通りに姿も変えてきて、気持ち悪いものね」
クスクスと笑い合う二人。
それは、市場にならぶ食材の鮮度について語らっているかのような気軽さだ。
妖魔は人を食べる。
その事実ごと、ようやく目前の光景を現実のものとして受け入れだすと、ニカナグの背中には嫌な汗が伝いだした。
それでも彼女は、ぐったりと事の成り行きを見守るしか出来ない小柄の手を握り続けている。その容態を気にしながら、双子の言葉の意味をじっと探っている。
『変な魔力の塊』とは、魔力と妖力が混じる魔法石のことだろうか。
元の種族は魔法族であるらしいその姿と会話からして、双子が生来の〈天賜〉にニカナグと同じ〈魔法族の眼〉を備えていることは間違いない。
(だけど『食べたらダメ』って、なにを基準に判断を、)
だがその間に双子の会話は、決定的なところまで進んでしまっていた。
「ふふふ、ジョセ、ならやっぱり、この片目の耳長かしら」「そうねえ、片目よね」
「あんな乱暴に蹴られたこと、ハリは怒っているし」「ジョセはずっと美味しそうって、思っていたわ」
「ふふふ、じゃあこのまま持って帰ろうかしら」「それがいいわ、彼に見せましょう。食べてもいいか訊きましょう」
そしてハッとした時にはもう遅い。
〈四ツ足禽〉はまるで操り人形のように双子の意思に従い、眇目はその巨大な嘴に両脚を咥え込まれていた。嘴の中で、ごきりと嫌な音がした。
意表をつかれたように目を瞠っていた眇目は、その音が周囲に響くと同時に苦悶の叫びをあげ、顔をゆがめる。その表情の彼と、ニカナグは目線がぶつかった。
「まっ、待て! うちの護衛をどこに——!」
咄嗟に、まだ捨てきらない仲間としての情で、ニカナグは妖獣の前に立ちはだかろうとし、……しかしすぐに怯えて立ち尽くす。
それは重たい音を立てて、肉球の脚が一本、地面に千切れ落ちたから、だけではない。
そんな苦悶の表情を浮かべながらも、その隻眼から彼女に向けられた光が――――すれちがう他人を睨むような褪せた色をしていたからだ。
『さ い あ く』
そうしてニカナグから眼をそらし、音を紡がなかった彼の口が、そう動いたのだと遅れて気付いたとき——、
「…………」
眇目を携えた妖獣に騎乗し、双子はすでに森の奥へと消え去っていた。
例えどんなに屈強な種族でも、妖魔二体にあんなふうに拐われて、無事で戻って来るとはとても思えない。
耳の奥にはきゃらきゃらと、鈴のように笑う双子の不気味な姦しさが残っている。
『別れ』と言うにも、あまりにも呆気なさすぎる。
あの隻眼の男には、下手をすると二度と見えることは無いかもしれなかった。
なのに、全部蔑むような、眼差しであった。
もう片方の脚は、おそらく折られていただろう。なのに。
なのに、あのように痛みに顔を歪めてもなお、ニカナグは彼から、助けてとも逃げろとも言われなかった。
結局あの男はニカナグの思う以上に何も変わらず、そして何も――……本当に何も、ただの一欠片だって、ニカナグに期待していなかったのかもしれない。
それはここまでこんな中途半端な姿勢ででも『仲間』として眇目を選び、従えてきたニカナグにも理解できる、明確な裏切りだった。
さらに視界の端には、断面も鮮やかなあの男の脚。
もしかしたらこのまま術者は失われ、花登の解呪すらも実質的に望みが途絶えるかもしれない。あの妖魔と”群れ”の繋がりについても、まだ詳しく聞けないままだ。
「……小柄くん! 小柄くん!!」
それでも一度後ろの血だまりに目が落ちてしまえば、そんな大事さえ今はニカナグの思考から振り落とされる。肩をたたき、必死に助手の名を呼んでいる。
彼女は先程妖魔から妖力を吸い取ったことで、たった一つ、この少年を救えるかもしれない方法を懐に抱いてしまっていた。
内容量は、もう満タン。
けれど大叔母から託されたその魔法石は、人の命ひとつ救うだけの力は秘めつつも、人の命を救うには、あまりに穢れて濁った色をしていた。
(正直、『これ』が最善の方法だなんて、ワタシにはとても思えない……)
……そのせいでここまでずっと、無意識に選択肢からも外していた。だからこそお荷物に徹していたのだ。
例え命を繋ぎ止められても、妖力混じりの魔力を胎内に注ぐのだ、無事に動く身体になるかも分からない。前例も、多分ない。危険性が、あまりに高すぎる。
小柄の魂はまだ本当にギリギリでその内側にとどまってくれている。だが、さっきは薄目で周囲を映していた目も、もうぼんやりと焦点が合わない。このままではその命もあっという間に潰えて、彼もニカナグの隣からいなくなってしまう。
彼女は懐からその塊を取り出すと、冷たい石の感触を強く握りしめた。
――彼にはまだ、生きていて欲しい。
預けた信頼をこんなかたちで踏みにじられらるなんて、こんな結末、あまりに可哀そうだった。
ニカナグは、ニカナグとして生まれて重ねてきた知識と経験を接ぎ合わせ、必死に胸の中で、妖力にかかる浄化と精錬の魔法式を練り合わせだす。この式がぶっつけ本番なのも不安だ。だが、
「――お願い小柄くん、どうかまだ、此岸に残ってくれ。字を覚えるって、君、エニ叔母さんと約束してたじゃないか……」
祈るように呟いた。その声も、すぐに詠唱へと切り替わる。
――昼間の森の緑蔭に、濁った青の、まがまがしい光が灯りはじめた。その屈託のない笑顔と再び見えることを、彼女は心から願っていた。
次の更新は 10月23日(金) 22:10~22:20の間くらい(手動更新)です。




