170."狗"の言葉⑩ -✕✕✕✕-
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ほどなくして小柄の姿が分かれ道の岩陰に現れる。顔をだせば妖獣の目にもはっきり止まる位置だ。しかし眇目よりずっとひ弱な人族の少年を襲う様子は、やはり一向にない。
眇目は、小柄が姿を見せる前から彼の接近に気付く様子は見せてはいた。
「センパイ! ちょっとお話が!」
ただ、その上で堂々と名を呼ばれはじめると、ほんの一瞬、クモの巣が顔に絡まったかのような不快そうな表情をみせる。
……が、次の瞬間には、きれいに少年を無視しだした。
「お、おわッ?! ちっ、違うんス、センパイ!! コレ! コレを使わせてくださいっ!!」
しかし声を張り上げる小柄が必死の形相で烈鏃を掲げた瞬間には、やや目の色が変わる。どうやら何かを察したにちがいなかった。
「――小柄ぁ、……"待て"!」
「ッスぅ!?」
眇目はただ一言 命令したかと思えば、即座に〈四ツ足禽〉を引き付け、遠い森の奥に消えてしまう。――かと思えば、一分も経たぬ内、慌ただしさを連れて一気に掛け戻ってきた。
風が疾るような駿足が、小柄の隣に滑り込む。
《ケーティリ! ケーティリ! ギャあギャあギャあ!!》
と同時に森の奥から響いた不気味な鳴き声は、やはり眇目だけを狙ってまっすぐに移動している気配がする。
姿は、まだ見えない。
その刹那の待機時間に、この男が小柄の肩を小突きながら何か一言話しかけるのを、ニカナグは確かに捉える。
岩の向こうを覗き込む少年が、誇らしそうに笑うのも目にする。ニカナグの心はほんの一瞬ほころぶ。
そして次の瞬間、五十メートルは先の藪から灰色の巨体が飛び出てきた。途端に小柄の顔横は天を向き、引き絞った矢をほぼ真上に向かい放った。
曲射である。
(えっ、正面から射たないってそういう?)
ニカナグは感心してしまうが、ほぼ同時、屈む小柄からは指笛の音が届く。ハッと我に返り、慌てて頭を引っ込めた。
――直後、弧を描く矢は〈四ツ足禽〉の背ど真ん中に着弾し、ニカナグの内側にまで響く炸裂と共にはぜた。
《ギャアアアアア!!》
異状体の悲鳴が森に響く。
それから数秒後、ニカナグは恐る恐る、また幹の陰から目を出した。
岩の手前から周囲には、本体から弾けとんだ血と肉片が飛び散っている。色が青いため何とか堪えられるが、悪臭とあいまってなかなかグロテスクである。
そして〈四ツ足禽〉は一体どういう頑丈さなのか、背中を半分《えぐ》抉られ骨を失っても、まだそこにしぶとく存在していた。首を下げ、ニカナグには背を向けて、二人のいる岩陰へと回り込んで仁王立ちしている。
(――ええ、二人は?!)
見たい視線の先はその巨体に遮られていた。身を乗り出して、助手と護衛の姿を探してしまう。
不安を抱く刹那、しかし不意に足を止めた巨体の向こうから、落ち葉を踏んで跳躍する影があった。
長い耳に黒い布。眇目であった。
片目の視線が鋭く、剥き出しになった肉塊のなかを探っている。不愉快に蠢き、元に戻ろうとする肉の中には〈眼〉など使わなくてもわかる程度に核が露出していた。
その灰色の石塊を目ざとく見つけ、眇目の口許がニヤリと歪む。振りかぶる花蔦の切っ先が、その灰色の塊へと突き立てられた。
「そろそろ逝ね!」
妖獣は、もう鳴かない。
次に彼が岩の頂点に着地を決める瞬間には、もうその巨体は、森の風に流れて末端から霧散を始めていた。
何事もなかったかのように剣から蒼血を払いながら、眇目がニカナグを振り返った。
「よっし、暫定サマー? もう片付いたしとっとと逃げるよ、何ボサっとしてんの」
「あっ! わ、わかった!」
勝利の余韻に浸る暇もないが、勝ったことは勝った。へその緒のようにつながる妖力の糸はまだそこに残るが、本体が完全に消滅してしまえば、この糸が消えるのも時間の問題だろう。
ニカナグは思わず口許を綻ばせながら、二人のもとへ駆け出していった。
けれどその瞬間、ぼろぼろと崩れていく死骸の向こう。
ニカナグは地面を染める蒼血に埋もれるような、粘ついて水っぽい音を聞いた。
……ずしゃり。
(う、ん?)
なんだか、理由もなく嫌な予感がした。思わずしかめた眉で、崩れる死骸の向こう側を凝視してしまう。
そこに力なく倒れ付している影は、褪せた茶色の髪をしていた。目に映る、その姿。
「えっ?! ふぇ?! まっ……こ、小柄くん?!?!」
「――あー、そうだったわ」
(『あー、そうだったわ』???)
走りだしたニカナグの足にこもる力が、一気に冷たい緊張を帯び始める。背中に嫌な汗が伝う。
勢いよく駆け寄る最中、一足先に小柄の傍らへと降りた眇目は、無感動な顔で小柄の後ろ腰から削り刀に手を掛けていた。
シャッと引き抜き、響く、その音の無機質さ。
――ニカナグは腕に鳥肌が立つのを感じながら叫んだ。
「ちょ、ちょっとまって!? 何してるの、眇目くん!!」
長い耳と片目がこちらを向く。
その顔はそれがさも当たり前であるかのような落ち着いた様子で、どこか残酷な笑みを貼りつけていた。
~****~
褪せた茶髪の少年は、生まれたときには✕✕✕✕と名前をつけられていた。今や禁じ名となったその音を使うことは、彼自身にももう許されていない。
それでも幼い頃には仲間と共に深山を渡り歩き、年の離れた兄たちに獣や妖獣の知識を教わり、弓と矢を学んだ彼だった。
山を巡る間に、〈門〉を清めて飾る祭祀を行うことが、その国、スーラの山中に住まう〈山人〉にとって最も大切な役目だった。
ゆえに季節を追い、獣を追い、すみかを変える。自然に身を置く日々の暮らしに困難は多くとも、仲間たちの絆は深かった。
母姉が、他の姉たちと共に作ってくれる質素ながらも美味しい食事。時折『あきない』に出る父兄が、山の恵みと引き換えに得てくる服。
山歩きに困れば手を引いてくれる、優しくて厳しい『きょうだい』たち。
ほかにも、殺してはいけない獣、踏み行ってはいけない土地。侵してはいけない掟、受け継ぐべき名前、小さなものから大きなものまで、決まりごとはたくさんあった。
✕✕✕✕はそういうものに囲まれて育ち、少し大きくなるまでは、外のことなんてほとんど知らずにいた。
文字も数字も知らなくても、幸せだった。
けれどある年、父兄のその『あきない』というものについて初めて山を下りたとき、彼は頭を殴られるような衝撃を受ける。
とりどりの色。見たことのない食べ物。たくさんの人間。四方を、硬い壁に囲われた頑丈な家々。
何より『お金』という概念は、彼の常識を一瞬で塗り替えてしまった。お金があれば、物々交換などしなくても、好きなものは何でも買えるのだ。彼はびっくりしていた。
そんな幼い彼の手を引いて、父兄がふと立ち止まる。
『なあ、今日は樹登鹿の毛皮が思っていたよりずっと良く取引できたんだ。だからこれはお前と自分でちょっとした祝いだ。……でも✕✕✕✕、これを自分とお前だけで食べることは、どのきょうだいにも内緒だぞ? 高級品ってヤツだからな!』
そういって父兄は赤銀の丸くて薄くて小さいお金と引き換えに『みずあめ』というものを手に入れてきた。細い木のヘラにたったひと掬い、店主の女から差し出されたのは琥珀色のねばつく塊。
早くしないと垂れるぞ。そう急かされて口に運んだその『甘い』という味覚は、彼には生まれて初めての経験だった。
はじめての刺激に脳天が痺れる、天地がひっくり返り、山が割れるのでは思うほどには美味しかった。心から感動した。
……その瞬間、父兄がいたずらっぽく笑っていた記憶を彼は今でもたまに思い出す。山のことも、父兄も母姉もきょうだい達も、彼は大好きだった。
けれど今ここで"狗"に堕ち、殴られ、蹴られ、貶められ、『小柄』として"群れ"の掟を受け入れて暮らしてきた奴隷には、もうそれは幸せな思い出ではない。
恩人である彼女にいくら優しくしてもらっても、あの故郷に帰れない後悔と悲しみは、結局は小柄の胸の底をじりじりと炙り続ける。
そうして知らない人が家族に向ける暖かい愛情に触れる度、小柄が生きられる範囲に、それはもう存在しないのだと静かに胸が苦しくなる。
……あの『甘い』さえ口に入れなければ、きっと彼は今でもあの山にいたのかもしれないとさえ思う。
『一生、彼女についていく』なんて、それこそ口からこぼれ出た夢物語でしかないのだ。小柄だって本当は理解している。
暖かい言葉をかけてくれる母姉のような彼女の傍さえ、『ご主人さま』との契約の上、小柄が永遠に居ることを許された居場所ではない。
けれどもう、いい。
ゆうべ、眇目に『訓戒』を受けたあの一瞬を境に、小柄は目が覚めてしまったのだ。
願いも希望も、″狗″がそんなものを抱くのはやはり甘えで、弱さであることには違いなかった。
"群れ"の暮らしは時々死にたくなるほど苦しいが、役に立てば、今の彼がただひとつすがって尊敬する眇目は誉めてくれる。
あの男は小柄を殴り、蹴り、今回のように誉めてくれることもあれば、平気な顔で裏切ることもある。彼から見ても人のクズだ。
それでも小柄にとっての彼は、故郷にもいた『気高く優しい〈刃のきょうだい〉』たる一人だった。ゆえに尊敬してきた。それだけは、どう逆立ちしても変わらなかった。
だから、今回も二人の役に立とうと頑張った。
……いいや、ちがうか。カナイナに出逢うずっとずっと前から、役に立たない小柄は、一人で頑張ってきたのだ。
痛いのも辛いのも苦しいのも本当はもう嫌だったけれど、もう在りはしない故郷を想って、笑って頑張ってきたのだ。
群れに忠誠を誓わぬなら死を。
狗よ、その従順さを美徳とせり。
その、掟に縛られて息をし、やっとたどり着いた結末がここだった。
『もう助からないから殺す』
そう話す眇目の声が、ちかちかと明滅するような意識に響いた瞬間、小柄は――。
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「……は? 何って、こいつもう助かんないから、殺すんだけど」
顔は確かに笑っていても、それはまるでつまらない世間話に応えるような、平板で乾いた声だった。
「………………え?」
ニカナグの口が半開きになる。スレたため息が返された。
「あのさ、まさか忘れた? 言ったでしょ、こいつは死んでも困らないって。
もしや、あと数分で死体になるような、価値もない足手まとい連れて、ニムドゥーラまで逃げろって言いたいわけ? 輓獣車も大破してんのに? ……バカじゃないの?」
同じ大陸の、この世界では『人間』として区別される知性体の言語で話しているはずだった。
なのにその言葉はすべて、まるで全く知らない異国の言葉のようにニカナグの耳から足元へと滑り落ち、何一つ理解できない。
同時に、こんな結末に流れてもなお小柄の命を粗末に扱う彼に対して、明確な怒りのようのものも確かに湧いた。
近道しようと誘う背中を追いかけた、夕去りの、あの昏い路地の底。
『――誰しも命は一個しかないんだから、救えるものは救うんだ! そこに貴賤とか、言い出したらダメだよ。それは、キミも、この人もおなじさ』
そう言ったら縋るように祈るように、眇目の命を救ってくれと頼んできた小柄の表情をニカナグはちゃんと覚えている。
だから譲れない、譲れない。殺すなんて許さない。
込み上げる怒りが喉を塞ぐが、ニカナグからは叫びが漏れていた。
「君は! なにを言ってッッ……!?」
そしてニカナグは、ここで生まれて初めて眇目に――いや、他人というものに、眉を吊り上げて噛みついていった。
次の更新は 10月17日(土) 22:10~22:20の間くらい(手動更新)です。
眇目の本性こんな感じです。
また、構成の都合上で、167."狗"の言葉⑦ -つながる魂- の、眇目とニカナグの会話パートを結構加筆しました(_;´꒳`;):_
最新話を追いかけてお読み頂いている方には大変申し訳ございません。リンクを貼っておきますので、もしよろしければご確認ください。
https://ncode.syosetu.com/n5835kq/175




