166."狗"の言葉⑥ -褒め言葉-
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「例えばこんな風にさ。……――〈ところで君はだれ〉????」
そして『彼』に問うた言葉は、詠唱であった。
――――――キャァあアぁぁぁァァ?!
とたん絹を裂くがごとく、異様に高い悲鳴がニカナグの耳を貫きながら周囲に広がる。思わず顔をしかめた。
同時に偽物に肩口を蹴飛ばされ、ニカナグはそのまま後ろへとすっ転ぶ。魚の腐敗臭のする死骸と、咄嗟に伸びた小柄の片手に受け止められ、軽い衝撃だけが背中を抜けた。
「大丈夫ッスか、カナイナ姐さん?!」
「――嫌、嫌! いま、このゴミに噛みつかれたわジョセぇー!!」
同時に響いてくるのは、甘い響きの少女の声だった。頷き返すやり取りもそこそこに、二人は前方へ視線を向ける。
そこで不潔な野良犬でも見るような視線をこちらに向けるものは、もう眇目のかたちをしていない。
白い膚。赤いリボンが編み込まれた灰の髪。
背は縮み、服まで変わり、そこには瀟洒に着飾る、細くて白い肢体がある。
それはどうしてか、ニカナグが目を合わせた御者台の少女と同じ年頃、同じ顔をしていた。
さらにジョセという呼び名に応え、御者台の少女は素早く『何か』の隣に寄り添い出した。瓜二つの少女に、化け物は甘える仕草ですがる。
信じられない。
「ジョセぇー!」
「ああ、何てことハリ!」
正直、ニカナグが吸い出せた妖気など僅かだった。それでも、まるで毒に触れたかのように微かに痺れだす腕を抱え、彼女はその光景を目に納める。
さらに隠匿の術か何かを使っていたのだろう、その一瞬から寄り添う二人の側頭部からは黒い片角が現れ、もう隠す気もないのか、二人揃って禍々しく歪んだ気配を発し始めた。妖獣の妖気とは、段違いの穢さだ。
魔力が漏れでた瞬間、確定した正体に言葉が漏れた。
「よ、妖魔だったんだこの二人……」
「よ、妖魔、ッスか?!」
瞬間、ジョセが目を吊り上げ、ニカナグを睨みすえてくる。瞳もまた見る間に色を変え、二人揃って滴る血潮よりなお赤い、ギラついた輝きを放ち始める。
「――よくも! ひどいわ、愛しいハリにこんなこと!」「そうよ、ひどいわ!」
それから二人は恋人のように頭を寄せ合いながら、クスクスと囁き始めた。
「……ねぇジョセ。好き勝手に殺すのはやめようって、いわれたけど……」
「ええそうねハリ……、身の程を知らない悪い虫は別だわ、きっと」
細めく笑いからは、じりじりと焦がすような殺意が滲み出ている。それから、ピリピリと肌を灼くような強大な妖力が、圧となってニカナグにのし掛かる。
これは魔力を視るものにしか分からないだろう。
純粋な恐怖がストンと腹に落ちる。
正直なところ、ニカナグが妖魔に見えるのはこれが初めてだった。伝承の数を数えても、彼らの数はとても少ないからだ。
(あ……ワタシこれ……、突っついちゃいけない蜂の巣を突っついた気がする……!?)
とりあえず得体がしれないのでお帰り願いたい、という気持ちで動いたが、まさか中身が妖魔だとは思わなかったニカナグである。だって他人の顔を被る方法は、法に禁じられているだけで実際はいくらでもあるのだ。
予想以上の化け物を、思っていたよりずっと怒らせてしまった。
狂気すら帯びてこちらを向く冷笑を前に、喉は震えて情けなく息が漏れる。
しかし怯えたところでなにもかも後の祭りだ。一人で勝手に仕掛けてしまった以上、もう今のニカナグには、最初に考えていたセリフを予定通りに吐き散らすしか手段がない。
「――い、今のは警告だから!?! 魔力を吸い出すなんて一瞬だからっ?! 空の魔法石はまだある!
――か、身体のどこでも、ワタシは触れれば吸えるんだ!?! 次襲ってきたら、相討ち覚悟でも消し飛ばすよっ!?!」
嘘だ。石の所持数は一個、この吸い上げで貯留量は満杯、これ以上は吸えない。ハッタリである。
「さささささ、さっさと帰ってくれたほうが君たちの身の為だと思うけど!?!」
そのとき、ニカナグの背後から、風を裂くような高い音が唸った。いつの間にか加勢に入った小柄が、構えた弓から矢を放ったのだ。
彼が鼻息も荒く宣言するより先に、もうその矢は双子の片割れ――膝立ちで立つジョセの右目に突き刺さっている。
「ッス! 姐さんをお守りするッス!」
「きゃぁ?! ジョセ?!」
一方、矢を受けた敵は黒い長髪を揺らし、悲鳴一つ上げなかった。
リボンの妖魔は無言でしなだれかかってくる片割れの体を跳ね起きて支え、小柄を血のような瞳で睨みつける。
――よくもやったわね、ただの人間のくせに! アタシの大事なジョセになんてこと!!
叫びと共にぶわりと広がり、練りだされる妖気のその悍ましさ。
こんな化物を相手に良くぞ冷静に攻撃を叩き込めるものだ。
感心する反面、視えるニカナグはひとり竦み上がる。
そこへ追撃するように、御者台の上に長い耳を生やす影が立ち上がる。間髪いれず空を裂き、太く骨張った脚が妖魔二体の胴に重たい蹴りを叩きこむ。
「逝っ、ねッッ!!」
鈍い音が響いた。砂利道に突入し乱暴に揺れだした車上で、毛皮の爪先は任せに、妖魔二体をまるごと横凪ぎにする。
車台の端に屈んでいたハリは、直接蹴りを食らった相方の重みごと外向きの衝撃によろけた。「ぎゃっ?!」と汚い呻きを上げてバランスを崩す。
その手は咄嗟に片割れの身体を掴むが、さらに追加で入った彼の蹴りこみに追撃され、二体揃って車輪の外側へと転がり落ちていった。
ドサリと響く音を置き去りにして、輓獣車はぐんぐん遠ざかる。
思ったより、呆気ない。
ポカンと後方の景色を見守っていると、
「――――あーもー、さいあく……、完ッ全に敵に回した……」
声がした。直後、顔を覆う日除けのフードを彼が外すと、顕になる隻眼に小柄がひとり、目を丸くする。
「おわ?! は、わ?! えっ!? センパイ――?!」
眇目はすぐには答えなかった。そのまますかさず、〈雪分ケ〉に鞭を入れ直す。荷台は風を切ってぐんぐん加速し始めめた。
しかしいつもビビるニカナグさえあまりに驚かないので、小柄はひとり、ますます挙動不審になった。
「えっ、はわ?! かっ、カナイナの姐さんはもしかして知ってた……?」
そこへ眇目が、まるで何事もなかったかのような態度で彼をを振り返った。
「おい小柄ァ……」
「はっ、はいッス?!」
「手綱、代わって」
「は、はいっッス!」
「今の、あの近さで外してたらリンチだったけど……、まぁ、良かったよ、今の一撃~」
「は、はいッス! ――……えっ!?」
尋ね直すも、片方に切れ込みの入る長い耳はもう意に介さず、急かすように彼へ輓獣の手綱を突き出してくる。
「はわっ……!? …………センパイが、誉めてくれた……?」
武器を背中に背負いなおし、小柄が御者台に歩み寄る。その返事がどうしようもなく緩んでいることに、ニカナグは気付く。
すると「やっぱクソチビはチョロいわ」などと馬鹿にしたように笑いながら、肉球の足は小柄とすれ違った。
そのまま素早く、ニカナグの目前にしゃがむ眇目。何をするかと思えば、その片手は間髪いれず丈の長い巻きスカートをめくってきた。
「ひゃっひ!?」
ニカナグは脛に感じた風の流れに身を固くし、その手から裾を奪い返す。
「おー? ないじゃん傷。……よかったわー! マジで言ってたらもう腹いせにあんたのコトぶち殺そうと思ってたんだけど」
唖然とその顔を見上げるも、そこから返る言葉にも仕草にも、相変わらずニカナグを女として見ているような雰囲気は一切ない。同時に、さっきから何故か剣の握りにかかっていた眇目のもう片手が、するりと外れるのを目にする。
「――おわっ、センパイ何してるんスか!?」
後ろから上がる声も意に介さず、ニカナグに向く満面の笑みはとにかく張り付けたようだった。




