157.彼の魂の価値⑨ -小柄-
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ニカナグが湯から上がり、母屋に宛がわれた部屋に戻ろうとしたときだった。母屋とは別にある、製紙工房の建屋の前を通りかかると、開いた扉からぼんやり明かりが漏れていることに気付く。
『私ら大人は枝を煮て、紙を漉き、家族を食わせていかねばならず――』
アネアの祖父は確かそう語っていた。
だが流石に、日が暮れた後の煙突からは煙は出ていない。
誰が残っているのだろうか。
そっと覗き込む。お湯を貸してもらったお礼を言わねばならないと思った彼女だが、その角隅に置かれた机に向かっていたのは、意外にも小柄だった。
先ほど眇目の横で、縮こまってニカナグを見つめていた彼。
その気まずさを思い出し、声をかけて許されるのかと躊躇してしまう。その一瞬で、彼女は顔を上げた彼と目が合ってしまった。
けれど思いのほか、小柄は戸口のニカナグの気配に気付くと、パッと表情を明るくするのだ。
「おわ、姐さん……? お風呂上がったんッスね!」
「えっ、あっ、うん……?? ――……その、眇目くんは?」
こわごわ問うてしまう。
「センパイなら、先にお祖母ちゃんにご飯出してもらって、そのあと自警団の人に誘われてどっか行ったッス!」
「そ、そうなのかい……」
どこへ行ったか知らないが、きっと急に連れだされることになって、今ごろ猫かぶりを炸裂させているのだろう。
……ただ、あんなに消沈していたはずのこの少年自身には、今はどこにも何も、昼間と変わりは無いように見えた。
僅かな違和感は覚えるものの、それより今、その変わらなさは安らかな引力である。工房の敷居を跨ぎ、ニカナグは少年の傍らまで自然と歩み寄っていく。
広い建屋の片隅には、大きな竈と鉄の釜。側には何かの粉が入った粗布の袋が積まれ、中央には蓋をされた井戸らしき囲いと、張られた水に大量の枝が沈められた四角い石槽。他には木枠に桶に、ニカナグにはなにに使うのかよく分からない道具が、壁の隅にズラリと立て掛けられている。
しかし見渡してみても、そこに居る者は本来は部外者であるはずの彼ひとりだった。
「……どうしてここに?」
問うと、彼はやはり屈託なく返す。
「火を使っても怒られない所を借して貰えませんかって言ったら、お祖父さんがこの場所を。……膠を煮るって言ったら、このちっちゃい炉も使っていいって、灯り用の油も燃料に出してくれたんッス」
お祖父さん、いい人でした! と歯を見せて笑う小柄。
見れば彼の手元には削り刀が握られており、机の上には昼間、武器屋で買っていた矢の材料一式が並べられている。
どこで調達してきたのか矢軸もあったし、それから青頭巾の翼の黒い風切羽も、一緒に束ねられていた。
今夜、本来はニカナグたちの為に、町の人たちも交えてそれなりのもてなしをしてくれる予定だったと聞いたのだ。
ウルシンの遺品を見つけたためにその宴自体は取りやめになってしまったが、小柄のことなのできっと、ご馳走のために〆ていた鳥の羽根を分けて貰ったのかもしれない。
「……矢を、作ってるのかい?」
「ッス! センパイに怒られちゃったんで……、あわ、良かったら座ってください姐さん!」
いそいそと、斜め向かいのもう一脚の椅子を引っ張り出す彼。
勧められるままに席に着くと、小柄はどこか嬉しそうに肩をすくめた。薄い獣臭がふわりと鼻に触れる。
それは火と油の入った小さな器と五徳の上で、湯煎にかけられた琥珀色の塊――膠だ――から漂ってくるようだった。独特だが嫌な匂いではない。
ニカナグもあまり詳しくはないが、膠は強力な接着剤になる。これも矢作りに使うのだろうか。
「さっきは、センパイがすいやせんでした、姐さん」
その匂いと炎の柔らかな揺らぎの中で、小柄は眉を下げて詫びてくる……それがさも当然であるかのように。
言うつもりはなかった言葉が、とっさにニカナグの口をついた。
「……あんな、乱暴に殴られていたのに、従うのかい?」
言ってしまってからハッと顔色を伺う。
かち合った視線の先で、彼の細くて短い眉が一瞬上がった。だがすぐに、へへ、と笑みの形に変わる。
「……自分、姐さんと同じくらいセンパイのことも尊敬してるんで! それにアレはホントに全部、自分が悪かったんスよ。弓も矢も、道具はいつでも使えるようにしとかないと、意味ないッスから!」
その、彼女にはいまだ理解が及ばない彼の打たれ強さと純粋さに対して、ニカナグは初めて戸惑いを抱えた。しかしそれをどう語りかけるべきか戸惑う間に、小柄は言葉を続けている。
「それに自分、矢を作るのは嫌いじゃないんスよ? 今は、こうしてるとすごく、故郷の山にいたときのこと思い出せるんで……」
「ふるさと……」
そう言えば小柄は幾度か、自分の故郷について語ってくれていた。
「ああ、隣国のスーラで、山人の集団に生まれたって言ってたね? 定住しないで山を巡ってるいう……」
「おわ、話したの覚えててくれて、嬉しいッス!」
小柄の故郷については、学術の徒としても聞いてみたいとは思っていた。その土地に残される古い魔法や伝承は、研究の材料になる。ニカナグにとってはいつでも興味深い。
「……も、もし良かったら君のふるさとの話、聞かせて貰えないかい? こういう話で、新しい魔法式を思い付くこともあるんだ……!」
ソルスガに依頼されてしまった、魔法石による、新しい動力源の開発。この異状体の妖獣どもの出所を探る任務を終えたあと、元々の本題であるその研究に活かせるものも、もしかしたら出てくるかもしれない。
「お、おわ……」
懐の物入れから、いそいそと携帯用の筆記具を取り出し始める彼女の勢いに、小柄は、やや焦ったように顎を引く。
「大した話は、出来ないっスよ姐さん……??」
「大丈夫だから! ほら、覚えてることなら何でもいいんだ。ワタシは聞いているだけで楽しいし、小柄くんはもう、手を止めたりもしなくていい。ほら、作業も続けてもらって、気軽に……!」
手振りでも、前のめりに続けて! と示す。
円いつり目は「な、何でも、ッスか……?」と困りつつも、どこか嬉しそうに語り出した。手は、直前までしていた、矢軸の曲がりを火で炙って直す作業に戻っていく。
「自分、山では狩りが得意だったんで、下に新しく弟が生まれた時、そういう時のお祝いにしか狩っちゃいけないことになってる、『産土の禽』を射ちに行ったことがあるんスけど、」
「うぶすなのとり……下に弟……えっ待って君、兄弟がいたんだね??」
「ッスよ? あっ。……って言っても別の親の赤ん坊ッスけど――」
曰く、小柄の故郷では血の繋がりでいうところの家族という枠組みがあまり特別視されないらしい。親が誰かは認識するが、誰の子に生まれてもみな年功序列で兄弟。産みの親ですら、辿っていけば兄弟という認識になる、と。
「って今考えると、アレは大きい意味では、みんな一個の『家族』っしたね……。男親は『父兄』、女親は『母姉』って呼ばれてたッスね」
「おお。それはとても興味深い、『共同体』の認識の仕方だね」
「そう、ッスかねー……?」
あまり実感はなさそうに返して、小柄は続ける。
「……でも今日一緒に歩いたアネアさんはその……、いちばん仲の良かった自分の妹と、たぶん歳が一緒だったッス。だからなんか、今日はものすごく懐かしくなって……」
聞けばその『妹』も父母も山人たちも、スーラの山中に健在であるらしい。
「こんなときに、こんなこと思っちゃダメだとは思うんスけど、居なくなったら心配してくれて、死んだらきちんと悲しんでくれる家族が側にいてくれて、ウルシンさんが羨ましいって……」
「小柄、くん……」
思わずペンを持つ手が、止まってしまった。
「自分……、今はこんなですけど、山の暮らしは大好きだったんスよ。
今回は、失敗しちゃいましたけど、ずっと戦闘職じゃなかったのにセンパイに弓手として仕事させてもらえるのも、獣追いでアネアさんたちのお役に立てたのも、やっぱ自分が山人だったおかげですし、ホント、こういうの姐さんに話せるのも楽しくて……」
「君は、故郷を誇りに思ってる? のかな?」
「ッス!」
すると矢軸の先に削り込みを入れつつ、彼ははにかんだ笑みで何の衒いもなく頷いた。
それは故郷への、強烈な憧れが混じりあったような切ない表情だった。ニカナグは覚えている。ここに来るまでにも彼女も何度か目にした。やっと理解する。
(ああ。これは……、彼のこれは、望郷なんだ――)
小柄の魂は、おそらくずっと故郷の、スーラの山に繋ぎ留められて来たのだろう。そこは奴隷に堕ちてもなお、きっと心の拠り所として、彼の心に灯を灯し続けている。
思わずじっと凝視してしまった。
その、彼女の神妙な面持ちを、少年はどう捉えたのか。定かではないが、そこで彼はまるでその空気を横に流すようにおどけて見せた。
「へへ、そいえばその産土の禽も、〈青頭巾〉なんかよりずっと美味しかったんスよ? 身が締まってる割には脂も乗ってて、食べてる木の実の香りがして甘くて」
「うん? 野鳥なのに、そんなに……?」
割と食い意地の張るニカナグは、ついついその話にも食いついてしまう。小柄も嬉しそうに返す。
「 ……そりゃもうもちろん! 産土の禽ッスから!
姐さんにも食べさせてあげられたら良いんすけど、でも、この辺で飛んでるのは見たことないんスよね……。あと、そう言えば産土の禽の心臓と肝臓は、母親になった人しか食べちゃいけなかったんスよ」
「ほうほう、お呪い的なものかな」
興味深く、メモ取りを再開するニカナグ。
「なんかすごい美味いらしいんで、一回食べてみたかったんスけどね! けど残念ながら自分、男なんで……、お母さんになる機会が逆立ちしても永遠にないってことに気付いちゃって、そん時はちょっと凹んだっス……」
紙面に伏せた視界の端に冗談めかした仕草をする彼の気配を、走り書きをしながら見留める。ニカナグは釣られるようにフフフと笑った。
そうして開いた一呼吸ぶんの間に、
『どうして奴隷になってしまったんだい?』
一度は尋ねかけるも、この柔らかい空気にその問いかけは、さすがに重たすぎる気がした。
故に、問いの形を変える。
「……まだ何年後になるかわからないけど、ワタシの助手の仕事が終わったら、その時ソルスガさまに里帰りしたいって掛け合ってみたらどうだい?」
「おわ……?」
帰りたいなら、帰ればいいのではないか。
キョトンとしだす猫目の顔立ちに、彼女は続ける。
「君のご主人さまはワタシの仕事の手伝いが上手く行ったら、小柄くんの待遇について改善するとも言っていたし、『何か願いがあれば叶えてもいい』とも、言っていたよ。一応覚えてるんだ。
奴隷抜けは、叶うかは知らないけど……」
難しい道のりなのは違いないが、ニカナグは、ソルスガの理想の実現を、単なる夢物語に終わらせる気は毛頭ない。
あの男の夢に、ニカナグは今のところ本気で乗っかるつもりでいる。
必要なのは、おそらく更なる知識の蓄積と、研究の積み重ねだけだ。
そこではたと、ニカナグは宙に視線を浮かせた。
「……あ、それか、この妖獣の調査が終わったら、『魔石の出力改善のための見聞を広げたいから』って理由で隣国への調査をでっち上げて、ちょっとだけ君の故郷に寄ってみても……」
そんな、彼女には珍しく不真面目な言葉を吐いたところで、小柄はついに眉を困ったように下げつつ破顔する。
「プッ……ヘヘヘッ、姐さんがそういう風に自分のこと考えてくれるの、めっちゃ嬉しいッス! そうなれたら、きっと楽しいッスね! ……ご主人さま、厳しいんで叶うかはわかんないッスけど」
「いける、いけるよ、きっと」
二人ぶんのささやかな笑い声が上がる。
けれどふと目にする小柄の笑顔は、何だか彼には不釣り合いなどこか大人びたものだった。
「?」
不思議には、思った。
けれど、そのあとも彼は楽しそうに色々教えてくれたし、やがて戻りの遅い特使を心配して、アネアが顔を覗かせにくる。
「――二人とも、お夕ご飯は食べないんですか?」
「あ、ああ。そう言えば、お腹空いたな? 小柄くんも一緒に行くかい?」
「ッス? ちょうどキリも良いんでお言葉に甘えるっス!」
だからそんな言葉に促されめいめい席を立つ頃には、何も変わらない助手に一瞬感じた違和感など、ニカナグはもう忘れてしまっていた。




