155.彼の魂の価値⑦ -″仲間なんだから″-
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「――眇目くん、危ない!!」
その叫びに、まず首を向けたのは駆け寄ってくる〈虚棲ミ〉の方だった。
一瞬遅れ、驚愕したように見開かれた隻眼もニカナグを振り返る。
だが彼は、やはりまず自身の前にいる一頭目の〈虚棲ミ〉を退かすことに苦戦している様子だった。ニカナグの突撃に気づいた瞬間から、彼は、剣に噛みつき肩に爪を立ててくるその巨体を、歯を食い縛って押し返そうとし始める。
一方、最後の枝を飛び越え終わる二頭目の〈虚棲ミ〉は、〈門〉の下から出てくるニカナグに気付いた途端、なぜかわずかに足取りを緩めた。
ほんの瞬き一つ分、どちらを襲うか迷うような仕草を見せる。
それをニカナグは見逃さなかった。なにを基準に迷っているのかは、やはり定かではない。
しかし、その一瞬の速度の緩みは、鈍足のニカナグがこの獣に接近するには大きな好機となる。
獣は、結局は標的を眇目に定めた。
再び脚を早めながら、接近してくるニカナグを無視して〈門〉の前を通過しようとする。
駆け寄る彼女の懐から、嵐の中でもなお青く澄んだ色に輝く汎用魔法石が引っ張りだされた。
そのまま猛然と、錆色斑に肉薄する。前からの風圧に煽られてフードが外れた。
シーナバーナを象る顔に大粒の雨滴が無遠慮に染み入ってくるが、気にする余裕もない。
泥まみれになりながら、草と落ち葉の水溜まりに滑り込む。引きずられながら、その後足にどうにか齧りつく。
再び開いた〈魔法族の眼〉には、妖獣を巡る妖力の流れがよく視える。ニカナグは、大きく振りかぶった。
――……同じ魔法は、使うほどよく馴染むものだ。
――……その中でも、この魔法はニカナグにとって特別だ。
こんな『図々しい』魔法をここまで使い慣れた魔法使いなんて、多分ニカナグ位のものだろう。
今回、『使う相手』は普段と違うが、
(――大丈夫、今 構築した略式と自分を信じるんだ!? いけワタシ!!!)
コンマ一秒だって惜しかった。とにかくやる。躍動する。
期を同じくして、天では白くまばゆく稲妻が瞬く。
殴り付けるような所作で、冷たく滑らかな青がその太い流れの真上に押し付けられる。
他人が聞けば、魔法の呪文などとは絶対に思わない詠唱が、激しい雨音の中にこだました。
〈――貰い受けます!! ありがとう!!!〉
一瞬だった。そういう魔法だった。魔石が容量いっぱいまで、妖獣の内包する核から妖力が吸い出していく。
妖獣も人と同じく、〈魂の器〉の代替たる核を失えば形を保てない。
だから〈虚棲ミ〉は、きっと叫び一つ上げる暇も無かったのだろう。
その、うなる雷の残響が雨音に呑まれる頃には、錆色斑の巨躯は灰がほどけるように、すべて消え失せていた。
雨はまだ降り止まない。
対峙していた一頭目を斬り伏せ、血相を変えた眇目がようやく駆け寄ってくる。水溜まりを踏んで近付いてくる足音を耳の端に捉えながら、ニカナグはひとり、嵐の渦中で静かに腰を抜かしていた。
◆
それから三時間ほどが経過した。通り嵐はすでに去り、西の空にだけ血のように赤く、夕暮れの残滓が染めつけられている。
「……泥で汚れてしまったお衣は一式、すぐに洗って干して、明日の昼前にはお返し出来ると思いますからね、それまではこちらをお貸ししましょうね。
……ワシの若い頃の服で、この婆と同様に裏地にシミも目立ちますのでね、我が家の恩人である特使さまにお着せするのは、心苦しいのですがね……」
「あ、いえっ、そんな! 一晩の宿に服をお借りできるだけでもありがたいのでっ!」
ニカナグは、アネアの家の水小屋にいた。
反応に困る話題でニカナグに話しかけるその老婆は、アネアの祖母だった。
祖母は申し訳なさそうに少し古風な意匠の装束を差し出してくるが、そもそも布は貴重品なのだ。贅沢は言えない。
「脱ぎなさったら頃合いを見て引き受けますからね。あたしゃァいったん用事をしてきますよ? そこの桶に入れておいて下さいな」
そう言い残して、水小屋の風呂場から曲がった背中が去る。
それで、湿って汚れた服の釦に手をかけたニカナグだった。けれど、服を脱ぐ動きはそこで固まった。
――なにせ、まるで老婆と入れ替わるようにして、ノックもなしに無言の眇目が脱衣室へ入ってきたからだ。
ニカナグは気まずさを覚え、目を円くする。
「……ひぇっ? あ、あの?! 何か用かい、二人とも? ご、護衛ならせめて外で待っててくれない、かな?」
返るのは沈黙。彼は黒い尾を鞭のようにしならせながら、もう隠すことなくニカナグを睨みつけている。〈虚棲ミ〉を倒してこっち、笑顔を張り付けたままどことなく不機嫌だった彼だ。そんな眇目の傍らには、なぜか引きずられるようにして小柄も連れてこられていた。
ニカナグの顔色を目にした小柄が、おそるおそる眇目を見上げる。
「ほ、ほらセンパイ、やっぱり、その、姐さんも困ってますから、話なら後でm――うぐっ?!」
だがそこで彼に返されたのは、有無を言わさぬただの暴力だった。どすり、という鈍い殴打が、いきなり小柄の鳩尾に刺さった。
今までどこか掛け合いのように小柄を小突くのは見てきたニカナグだ。だが今の眇目は、何か間違えばすぐにでも彼を殺してしまいそうな程には危うげな目をしていた。
かひゅ、と息を吐きながら、少年の身体が石の床にうずくまる。
「えっ、ちょ?!」
ニカナグは心臓を跳ね上げ、びしょ濡れのまま慌てて小柄に駆け寄っていった。
「眇目くん?! なんで、いきなりこんな!?」
すると眇目は両手を顔の前で開いて見せながら、初めて口をきいた。
「ねえいま、道具、なんも持ってない。手加減してんのわかるよね? 僕ってば、やさしいからさー」
「優しい、って、どこが――、」
「――で、僕が殴った理由は? わかってるよねー、クソチビー??」
しかしそれはニカナグの存在など空気のように突き抜けて、全てこの、うずくまる少年に向けて刺さっているのだった。えずいて涙目の小柄も、その問いに従順に頷いている。
「ッスぅ……」
「はは、見てたよー、小柄ァ?? ずいぶんいいご身分だったよねー?
せっかく使える武器が手元にあるのに、現場に出ても、肝心の打てる矢数は二本だけ。……それで?
タマ切れになったら護衛対象と同じ安全領域に引っ込んで?
『がんばりまちたねー、助手くぅーん』
って護衛対象に甘やかしてもらって? しまいにはノコノコ前に出てきた暫定サマに護ってもらってんのー。
……はは。ホーント、ウケるよ小柄ァ。まじで傑作~」
へらりと足下の少年に突き刺さる、その冷笑。低い囁きと共に浮かべるその笑みには、ひとかけの情も感じることができない。
濡れた服はずっと張り付いているが、それ以外の冷ややかさが、スッとニカナグの肌をなぞった気がした。
口にする言葉は、確かに正論なのかもしれない。
けれど正論であるがゆえに、それはまるでよく切れる刃物のように、容赦なく少年を切り刻んでいるように思える。
「――あのさ、今この瞬間、敵襲を受けたとして、僕が死んだら暫定サマが敵に殺される。暫定サマが傷物になったら、僕もご主人サマに殺される。
でもキミはさぁ、そういう契約じゃないでしょー?
僕たち三人の中で一番死んでも困らないのは、キ ミ な の。
……おい。ここまでで何か言うコトは?」
横暴である。それでも、小柄は従順だった。
「っ、げほっ……、お赦しと訓戒、っ、ありがとうございやひゅ……」
そこには、この二人にしか通じ合わない何かがあるのかもしれない。しかしやはり、余りにひどい言い草であるのは確かだった。
それを聞いてしまったさしものニカナグも、さすがにそこには割って入る。
「ちょ、ちょっと?! その言い方はないんじゃないかい、眇目くん?!」
「おーおー、たった一日でいっぱしに僕にも噛みつくようになったねー、暫定サマー? そんなにこのクソチビに優しくしたい?」
「当たり前だろう?! 仲間なんだから!」
「はっ、仲間」
だがそんな怒りの表出も、この耳長にはただ子犬に吠えかけられているようにしか見えなかったのかもしれない。ようやく無視を止めたかと思えば鼻で笑って、今度は彼女の瞳を覗きこんでくる。
それは明確な軽蔑であると同時に、何故か、どこかニカナグに失望したような笑いを含んでいた。




