152.彼の魂の価値④ -弱いヤツの吐く言葉-
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「暫定サマ」
猫を被るのも忘れたのか、彼は鋭く静かに口を切った。
「来てる。なにか大きい生き物が二体」
説明を省けたことにニカナグは安堵する。感知する妖力の数も方向も同じだった。
「き、奇遇だね。たぶん異状体だよ、ワタシも同じものを向こうから感じてるんだ」
ただ、彼女が言い切る前に眇目はもう動く。
急に張りつめた二人の空気に戸惑うアネアを「失礼」と一言で片腕に抱き、更にニカナグの手首を乱雑に掴むと足早に駆け出していた。
「おわ? どうしたんすかセンパイ!」
「小柄ぁ! 後方二時、武器は使え、役割は同じ! あとは察しろ!」
樹上からの戸惑いにも手短に返している。
ニカナグは〈天賜〉で察知しているが、彼はおそらく音なのだろう。小刻みに回る耳の動きが止まらない。
態度は最低だが、仕事だけはしてくれる男だ。全幅の信頼で、彼女は素直に従った。
「えっ、なに?! なんなんですか護衛さん?」
ただその横で、何も知らないアネアはまだ戸惑っている。……が、こっちは急に抱き上げられたためか、なんだかちょっと嬉しそうだった。
「メス……いや、お嬢さん」
「はい?」
そのまま眇目は二人を〈門〉の直下に据え、気が立っているのだろう、鼻筋に皺の寄るままの顔で続けた。
「知ってますね? 妖獣は神力で動く〈門〉の回りが嫌いです。だからこの下から出てこないで、絶対に。いいですね?
――――特にあるじ? ……出たら捻り殺すよ?」
ちょくちょく隠しきれなくなっている本性に困惑した様子でアネアが眇目を見上げている。そのまま少女は踵を返す長い尻尾を見送るが、なんとその直後には、ニカナグを振り返って無邪気に微笑んだ。
「『捻り殺す』なんて、言葉はおっかないけど……、あたしのこと、大事そうに運んでくれましたよ? きっと特使さまのことも、本当はすっごく大事なのね!」
(いやアレ、単に自分の首がかかってるから必死なだけなんだけどね?!)
やはり姫と騎士みたいなキラキラしい何かを想像されていそうでいたたまれない。
そのくせ実際のところ、字面だけならおそらく何も嘘でないのが質が悪いのだ。
ニカナグは思わず一欠片の悪意もない瞳から顔を反らし、長い立ち耳の背中をごまかすように目で追ってしまう。
「あ、あははは……まあ……。そう、だね……?」
まばたき一つ分の一瞬、ふいに眇目と目が合った。蔑むような目線が痛い。おそらくこちらの会話を拾われたのだ。
しかし彼は掠れた金属音と共に花蔦の剣を抜き放つと、もう後ろを見ることはしなかった。
〜✲*✣*✲〜
『後方二時』『弓は使え』『役割は同じ』『後は察しろ』
(わかりやした、センパイ……!)
返された言葉を思い返し、小柄は独りで頷いていた。
あの、捻くれた『刃のきょうだい』から大役を任せてもらえたという事実に高揚している。
きっと襲撃だ。状況を確かめなければならない。
アネアは『ここは川の流れが変わってから時々洪水に襲われるようになった』と語っていたが、確かにこうして見ると立木は少なく、ほとんどが湿地に生えるような草ばかりで遠くまで見渡せる。
しかし、狙撃をするにはこの大木の枝葉の重なりは邪魔だった。彼は斜めに傾ぐ幹を素早く降りると、眇目の言うように後方二時、地上から数えて三枝目の、太く張り出した横枝を渡る。中程にきて周囲を見渡す。
遠くの廃屋そば、七十メートル程は向こうの背の高い草むらが揺れるのが目に映る。
そこは石積みの塀と塀の間、かつては道があったのだろう細長い区画だった。
目を凝らせばその道や塀の破れ目を縫うように進みながら、背の高い草の中を大きな何かがジグザグに近づいてくる。
そうして『何か』は、一度腐りかけた家の向こうに消える。かと思った次の瞬間、錆色斑の巨体が二つ、相次いで廃屋の外れた窓や扉の中からぬるりと飛びしてくるのを彼は捉える。異常体の〈虚棲ミ〉だ。
眇目はきっとこの事を言っていたのだろう。この距離なら、小柄にとっては既に良い的だ。
ただ、一つ良くないのは、今使える矢が烈鏃の二本しかないということだった。矢軸をぎゅっと握りしめた手に、嫌な汗がにじみ出してくる。
〈こんなに弓が巧いならば、✕✕✕✕はきっと良き獣追いになるだろうね〉
それでも、いつか誰かが放った暖かな言葉をすがるように思い出し、小柄は弓を強く引き絞る。
二本のうちの一本。失敗は許されない。
ヒュッと矢音が耳元から離れていく。
もうここにしか小柄の居場所はないのだから、絶対当てなければという気持ちだった――なのに、やはり少し狙いがぶれてしまう。まだ馴染み切らない弓矢のせいだ。
ゆえに厳密に言うと、それは失敗だった。
一列になって走る二頭の軌道の先、矢は深い草むらの中に突き立つ。
「あ……」
――――しかしそれでも烈鏃の改造矢であった。
次の瞬間、
――カッ!
鋭い閃光と共に赤い鏃は爆裂し、地面を抉り、すぐ両脇に建つ、崩れかけた二軒の二階屋根をも崩落させた。
瓦礫の崩れ降る音が地鳴りのように響く。想像以上の威力だった。異状体はそれぞれ倒れくる家壁の下敷きになり、抉れた穴と砂煙の下に姿を消す。一瞬だった。
わずかな失態に動揺している小柄だ。だが反面、魔力の気配を読んでいるらしいカナイナは、三、四十メートルは向こうの〈門〉の下から、わざわざ大声で呼び掛けてくれる。
「い、今の、小柄くんがやったのかい?! 動き、二頭とも止まったよ?! すごいな!」
「……スうッ!」
だから安堵混じりに返事をした。
そうだ、誉めて貰っている、なら大丈夫だ、これはまだきっと失敗ではない。それに奴隷に堕ちて数年、多少鈍っているであろう腕前も考えて、この鏃を選んだはずだった。
しかし、その直後だ。
「おいクソチビ、調子乗んな! 後ろ見ろ!」
厳しい叱咤が『刃のきょうだい』から飛ぶ。
同時に、微かに崩落地点から石の転がるような音が届いた気がした。
慌てて向き直ると、もくもくと立ち上る土埃の中から、のそりと這い出てきたのは錆色斑の毛皮。……その巨体はまだ生きていた。
しかも一頭だけではない。
最初の一頭が瓦礫の下から現れた直後、腐ってボロボロになった屋根板の下から、更にもう一頭も這い出てくる。
ただし先に出てきた一頭は、足かどこかが挟まっているのだろう、しばし踠いたあと、何を意図するのか顎を開く。
《ギャッギ、ギギェ! ギャッギ、ギギェ!!》
この妖獣は仲間と鳴き声で連絡を取る。小柄の知る限り、『ギャッギ』は『助けて』、という意味。『ギギェ!』は『襲え』だ。
だがその二つを組み合わせるなんて、小柄も聞いたことのない使いまわしである。
(おわ、それってどういう意味で……)
イレギュラーが重なり、混乱を極める。けれどそれ以上、思考する暇は与えられない。
屋根板の下から出てきたもう一頭は、無傷だったからだ。横で鳴き叫ぶ仲間の声に《ギャエー!》と応えるように鳴き、再びこちらに向かって、猛然と疾駆しはじめた。
しかし残りは一矢しかない。
わずかに迷いが生まれたその間に二頭はあっという間に離れ、すでに烈鏃一矢ではまとめて仕留めきれない程に距離が開いてしまった。
これは明確な失態である。しかしすぐに現実を見る。
だって本来弓とは前衛の後方から獲物に射かけるものだ。なのに彼は眇目の指示のもと、このような前線に立たされて、あわよくばすべての獲物を狙いきれる位置にいる。
……その意味を、小柄は良く理解していた。
運良く、残った一頭はこちらに迫ってくる。からだ全部をバネのように撓ませてしなやかに駆けるが、今のところ木の上にいる彼の姿には気づいていないようだ。
理由など知るよしもないが、経路を見るとどうやら小柄の立つ木の下を抜け、まっしぐらに広場の方へ突っ込んでいく様子だった。
そして心臓ひとつ分の鼓動が引き延ばされる思考のなかで、小柄は一つの選択を迫られる。
――――矢か。刃か。小柄の経験上、〈虚棲ミ〉の核は右胸の肺の中に埋もれている。
今なら、どちらを放っても届く。
だがしかし、先ほどの爆発を見ると、武器屋で売ってもらった烈鏃は、小柄が故郷で使っていたそれとは別物といえるほどの威力だった。
矢を射れば、木の下を抜ける前に確実に一頭は仕留められる。動けないもう一頭は、きっと眇目が始末してくれるだろう。
(――その代わり、自分も巻き込まれ……)
彼は無意識に怯んだ。判断は一瞬だった。
小柄は店で揃えた武器とは別に、後ろ腰にずっと帯び続けていた短い削り刀を引き抜く。彼が唯一つ持つ、護身と投擲用の近接武器だ。
鍔がなく、肉厚だが細身で、彼はこの刃を的に向けて投げるのも得意だった。直下を抜ける〈虚棲ミ〉めがけて振りかぶる。
(狩って、二人にも誉められて、ソルスガさまにも、核の献上を……!)
「もっと! 褒められたい!」
うまく行けば核を貫いて、あの獲物は一撃で霧散させられる。そうでなくても、注意をこちらに向けるか退散させる位はできるだろう。
鈍色の軌跡は真っ直ぐに異状体の〈虚棲ミ〉を捉え、その右胸へ深々と突き立つ。位置どりは正確だった。
《ギャッ?!》と悲鳴を上げ、直後ゆるむ異状体の足取り。
……だが、〈虚棲ミ〉は霧散しなかった。困惑する小柄の眉が跳ねる。
さらに獣は、彼に関心すら示さなかった――いや、一度は樹上を見上げ、確実にその姿を目に入れていた。それでも、まるで価値などないかのように目を逸らされたのだ。
(どうして――――!?)
しかし混乱する間にも、〈虚棲ミ〉の脚はまた早まる。
彼の背中を焦燥がざわざわと這い回る。これでは、なんの役目も果たせずに眇目に後を任せることになってしまう。
その失態に、彼の顔から血の気が引く。
――ダメだ、絶対にそっちへ行かせてはいけない。
ならどうするか?
そんなの簡単だ、撃てばいい。
わかっている。なのに最後の矢を引きながらも、小柄はやはり薄い恐怖を覚えてしまっていた。
小柄はまだ、烈鏃の爆発範囲にいる。
いや、しかし、そんな感情を抱いてはだめだ。
小柄が安全圏に出てから射れば、今度は広場にいる三人が危険に晒される。
戦慄きながら動揺を押し隠す。
『役割は変わらない。あとは察しろ』
……そうだ、こんな危ないことをさせられる意味を、小柄は良く理解しているはずだった。
小柄が心から敬ってきた、毛皮を纏う片目の男――『刃のきょうだい』は、あの瞬間、自分とニカナグの盾になれと命じたのである。
……路地裏に一人取り残されて、月輪族に追われたときと同じように、例え安全の保証などどこにも無い囮となってでもそうしろ、と。
不満なんてない。確かにそのつもりだった。
彼の優しい恩人、『カナイナ』の為にも、小柄はそうするべきだと思っていた。
しかし、『エニ叔母さんに字を教えて貰うんだろう? 』 という路地裏の約束を。
子供扱いして自分の頭を撫でて来る、ちょっと嫌だけど決して自分を蔑まない彼女の手の温かさを。
今のこの場所の、ぬるま湯のような居心地の良さを。
昨日からほんの少し、愛しく思ってしまっていたのだ。
そしてそんな、群れの先達たちが芥と唾棄する思いを灯して、彼は決めたはずの覚悟を乗り越えて、今『まだ死にたくない』と思ってしまった。
それはあまりに甘い、あるべくでない雑念だったのだろう。
だって『死にたくない』は、弱いヤツの吐く言葉なのだ。弱いヤツは、奴隷に堕ちてから小柄の生きてきたこの世界では、常に役立たずだったのだ。
(ひわ……そしたら、また自分、要らないって思われ……)
想像の中、冷たい視線が胸を貫く。手が震える。今度は、慣れない弓を番えている為ばかりではない。
背後に崩れ落ちた家の残骸の中からは、いまだに、
《ギャッギ、ギギェ! ギャッギ、ギギェ!》
と〈虚棲ミ〉の呼び声が響いてくる。
不気味な声の響きは、僅かに残る小柄の余裕までを容赦なく削り取る。ざわりと森を薙ぎ、頬を撫でた風の冷たさが、余計に小柄を焦らせる。
その、ほんの一瞬の心の迷いは、彼の手元を狂わせる。
〈虚棲ミ〉の背を狙い、斜め下を向いていた矢は指先から零れ、彼の立つ大樹の根元へと、――――矢の刺さり落ちる先を確かに狂わせた。




