150.彼の魂の価値② -揺れる尻尾-
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濡れる顎先を拭いながら、一度だけパタリと長い尾が揺れた。しかし、それだけだった。
「……それで?」
跪いたまま振り向く顔は予想外に冷たい。まるでゴミを見るような目だった。そこに、静かな気迫だけが宿りだす。
「……それで、なんなの?」
「えっ、ひぇ……」
手に滴る水を払いながら、ぬるりと立ち上がるその気配に彼女は気圧された。ついでに、その凪のような無表情こそが今の問いへの敵意と肯定なのだと気付いた時、三角の耳は一気にペタリと倒れる。
「あっ、えっ、えっと……!」
けれどここまで来てしまえばニカナグだって引き下がれない。怯えながらも、あわあわと口を開く。
「き、君、ハナトくんにも〈声封じ〉の呪いをかけてるだろう?! でも、呪い持ちなこと、ワタシにはバレてそうって思っても何も言わなかったよね? なんならハナトくんのことについて、ニムドゥーラの大広場でワタシがきみに追及しようとしたら『自分の仕事は考えることじゃない』って話まで逸らして来ただろう?
……そっ、そ、それって、呪い持ちなことを、回りやソルスガさまにも勘づかれたくなかったからなんじゃないのかい?」
(いや、待って待ってストレートすぎるぞワタシ?! 本当は最初からこんなことを言うつもりはなかったはずなんだ?!)
「――へーえ? そこまで気付いてたんだー? ……はは、暫定サマのクセに」
そう思っても、もう修正はきかない。焦る口は、半ばニカナグの制御を外れて勝手に言葉を紡いでいる――、へらりと、触れたら斬れそうな冷笑を浴びせてくる片目の男を相手にして。
「もっ、もちろん気付いてたぞ! けど、君がどんな人生を送ってきたかは知らないけど、眇目くんはこの事、ソルスガさまに知られたら不味いんだろう?
だっ、だから、このこと、バラされ、たくなかった、ら……」
自分で言葉にしているくせに、口にして自らの耳に届く程まるで自分のモノではないようで、言っておきながら勝手に引いてしまう。流石にニカナグの発言も尻すぼみになる。
瞬き三つ分ほど、逡巡してしまった。
……すっ、すまない、やっぱり今のなしで……。
それからとっさに、そんな発言と共にごまかし笑いをしようとする。
――……けれどそんな幼稚な諂いは、目前のニカナグに対し、一歩、二歩と距離を詰めだす眇目に、口にだす前から潰されてしまった。
「――ふーーーん? 僕のこと脅すんだー?」
「あっ、えっ? あっ、わっ?!」
手を伸ばされれば掴まれる距離から逃げ切れないまま、どんどん後退を強いられる。
速足に踏み出してくる、筋張った肉球の脚。頭上からは眇目の顔が、ニカナグの瞳を覗き込んで迫る。垂れて切れ長の片目は、獲物を追うのを愉しむような凶悪な笑みを浮かべていた。
そうして、どん、と自分の背中が硬いものにぶつかった時、ようやくそこが後ろにあった廃屋の壁ぎわだと気づく。
ただ、素早く横を見れば、一メートルもしないうちにその壁も崩れ、途切れていた。反射的に逃げ出そうとする。そんな彼女の視線の真ん前には、鋭く眇の腕が突き出される。
だん! と響いた。
ニカナグの喉がヒュッと鳴く。
それは、ニカナグにとっては冷たい檻が閉まる瞬間のようで、失われる逃げ場に、ニカナグの心臓が跳ね上がる。
その間に、眇目の顔はもう息のかかる距離から、毒蛇のように彼女を見下ろしていた。そこにはすでに、ひとかけらの笑みもない。
「あんた、例え僕がナニしても、ご主人サマに言い付けるようなハラも決められない、マジでど~うしようもないお花畑ちゃんだと思ってたのにさー……」
「ひぅ!」
図星だ。ぜんぶ見透かされていたらしい。
低まって響くその声に潜む、なにかの感情。
ただ、それもきっとロクなものでないに違いなく、彼は捕まえた虫をつまんでひっくり返し、その裏側をじっと観察するような、まるで温度のない目つきで彼女を捕らえていた。
さらに頭上からは黒い肉球の手が伸びて、彼女の頭を無機質に掴んでくる。追い詰められている恐怖が、遅れて背筋を駆けのぼってくる。
「きっ、君はワタシに、傷ひとつつつつけられないハズだよ――?!」
結果、ニカナグは気付けば焦燥に声を震わせながら、彼に対して切れるカードを全部ぶちまけはじめていた。途中から自分でも何を言っているのか、半分は良くわかっていない。
ただ、まるで拷問を前にした罪人が口を割るような滑らかさであることだけは確かだった。
「――そそそそそそそそそそそれに、まだ汎用魔法石にはエニ叔母さんの込めてくれた魔力が残ってるんだから、これ以上君がなんかこう無礼なことをするなら、今すぐ君をこう、キュッて拘束することだってキュッて――」
言って腕は懐から青い石を取り出そうとするが、その前に手首は硬い手のひらに掴まれている。
「おー? 言うねー。でも直に触ってないと発動出来ないんでしょ、それ?」
さっきこの石について、ニカナグがペラペラしゃべり倒していたときは悉く無視していたように見えたのに、そこはちゃんと聞いていたらしい。
(あっ、あっ? 詰んだかもこれ?!)
次の瞬間、その隻眼には引っ込んでいた笑みがまた宿りだすが、
「――で、急に僕のこと脅し始めて、なに? よーうやく哀れな奴隷を、道具みたいに意地悪く使い潰す気になったってことかなー?
カ ナ イ ナ ち ゃ ん は?」
その皮肉めいた言葉もしかり、ニカナグには全部、こちらの恐怖を煽るため突きつけて来ているものなののだとしか感じられなかった。
一方、目前ではクスクスと笑うハスキーな声が、綻んだ口元から漏れる。
「はは、いいのー? 『お嬢さん』がそんなことしてさー。
そうやって暫定サマが僕を脅すなら、僕だって今席を外してる、あの可愛らし~い領民のクソガキを最期にぶち殺したくなってくるんだけど。
そんで暫定サマにはご主人サマから手足のどれか一本、僕の処刑と引き換えに『ケジメ』をつけてもらおうかなー……?」
「えっ、えっ、ままままってまってなんでそんな話に……」
アワアワと見つめ合う数秒の膠着。
それ以上の言葉は、焦燥と恐怖に変な脈を打ち出す心臓を抱えては上手く言葉にならなかった。
が、次の一瞬で、その拘束は唐突に解かれていた。眇目の両耳がぐるりと背後を向く。何かの音を拾っている。
「……あのメスガキ、僕はまじで嫌いだし、あんたのその顔も無様で最高なんだけど……、うん、今はご主人サマの『首輪』に免じてこの辺にしといてあげる」
「はぇっ?」
壁から手が離れる。
まさかそれで解放されるとは思わなかったニカナグは、思わずきょとんとした。
首輪とは、ニカナグに付き合わされている彼が、首から提げさせられている兆嘴の徽章のことだろうか。あるいは、ニカナグが持たされているアフェイーグ家の紋章のことだろうか。
――でも、どうして……。
そしてその逡巡すら、どうやら予想されていたらしかった。上から目線の乾いたせせら笑いが、ニカナグに向けられる。
「え? なに? もしかして僕がこーんなに簡単に引き下がっちゃう理由でも考えてるわけ? やー、別に僕はご主人サマの命令に従って、大人しく仕事してるだけなんだわ。でなかったら暫定サマ、今頃僕に締め上げられてるって。
なんの為に僕が、アンタみたいなゲボが出そうなアタマくるくるお花畑ちゃんに繋がれてると思ってんの??」
と、返す言葉に詰まる間に、眇目は更に何かの診査でもするかのようにニカナグの顔を覗き込んでくる。どこか楽しそうだった。
「……ま、でも、思ってたより、ちょっとはマシだったわ……」
「えっ?」
その、呟きが耳に入る直後には、眇目はもう踵を返している。
彼女の身体だけがポツリと壁際に残される。心はさらに、多分その壁の裏側ぐらいの位置まで引っ込んで、埋め込まれたように動けなくなっていた。
「戻りましたー!」
「おかえりなさい、お嬢さん」
そこへ弾けるように響く、元気なアネアの声。
そんな少女に答える眇目の尾は――……、また、何事もなかったかのように、彼の感情に合わせて動き出していた。
(ええ……??)
目を疑う。しかもそれは、少なくとも先ほど目撃してしまったような刺々しい怒りの表出ではない。なんならほんの少し、機嫌すら良さそうだった。
……ゆえに今、彼から放たれた言動の何もかもが、ニカナグには不可解でしかなかった。
ぽかりと開いた口で、アネアと話す彼の背を見つめる。
『――ちょっとはマシかも……――?』
そうして揺れる尻尾とニカナグのその間には、やはり彼女には一切意味のわからなかった評価ひとつが、しばらくの間ゆっくりと漂っているのだった。




