145.獣追う三人⑤ -センドウする者-
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――――瞬間、彼の耳と尾の動きがパタリと止まった。
「ありがとうございます……、お嬢さん?」
ややトーンが高くてよそ行きの声と共に、眇目は急に最上級に柔らかい微笑みを浮かべる。それはちょうど、拉致の現場になったという、二つ目の畑の入り口に立ったタイミングだった。
しかし獣人種というものは本来、相当に努力を積まなければ、例え大人でも心と身体の動きを切り離すのは難しい。狛晶族の姿を借りている間、ニカナグも耳の動きを制御できないか、幾度か試そうとしたが無理だった。
ゆえに、急に凪の水面のように止んだ動きに、ニカナグは胸のざわつくような恐怖しか覚えない。
小柄もその様子は捉えていたらしく、急にひどく焦った様子で、アネアの横に進み出てくる。
けれどその視線はそのまま、やや呆気にとられたようにお下げ髪の少女を見つめだした。……だってあろうことか、彼女は眇目を見上げたまま、その胡散臭い笑顔に見惚れているようにしか見えなかったからだ。
「あっ、あわー……。アッ、アネアさん? 早速なんすけど、ウルシンさんってどの辺りから大きい〈虚棲ミ〉に拐われ――」
だがアネアも、問いかけに兄の名が出た瞬間、急に大人びた悲壮さを帯びて小柄の方を振り返る。
「あ……、それは、こっちです、助手さん……」
伴われて、小柄がアネアと先にいく。
「さあ、僕たちも行きましょうかー、あるじー?」
するとそこに、眇目も笑顔で続いた。ただ、目をやっても彼の尾と耳はいまだに動きを止めたまま、ピクリともしない。
(な、何を考えてるか、全くわかんなくなってしまったね…!?)
その不気味さにのし掛かられながら、この男が絶対にアネアにだけは悪さをしないよう見張らなければと、ニカナグは心に誓うのだった。
◆
――――「おあ、例えばここに、人族の足跡があるッス」
さわさわと、梢が揺れる森の中。
迷いのない小柄の痩せた手が、地面の一点を指差す。
しかし見た感じ、何の変哲もない。
森の底に木々が敷き詰めた、ただの落ち葉だ。湿り気を帯びた朽ち葉の匂いが色濃く鼻を覆いにくる。
「ど、う……違うのか全然わからない、ぞ? 小柄くん……?」
説明を求めた手前 気が引けるが、木漏れ日の下でニカナグは眉の間に困惑の皺を寄せた。
ちなみにさっきアネアが、お兄ちゃんはここから森の奥に引きずり込まれていったと話してくれた畑の端からここまでは、落ち葉と泥の混じって乾いたような緩やかな斜面がつづいていた。
そうしてその土の斜面には、二頭ぶんの妖獣の足跡。そこを引きずられていく少年の身体の痕。
それから、そこをあとから踏みつけて、現場を荒らしていく捜索者の足跡が、俯いて探せばニカナグの目にもよく理解できるほどには克明に刻まれていた。
想像すると、その瞬間の全てがそのままこの場に残っているような気がして、その生々しさに胸が苦しい。
しかし、その乾いた泥土の斜面が途絶えた瞬間から、ニカナグにはもうなにがなんだかわからなくなる。
「おわ、よく見るとわかりやすよ。……ここが、誰も踏んでない落ち葉」
スッと動く指。
「うん」
スッと、戻る指。爪の先が、楕円を描いて形を縁取る。
「で、今言ったこの足跡は……大きさと、押し目が平らなのと、あと、もう一個、こっちにある同じ足跡の歩幅的に、靴を履いた大人の足だって、分かるんすよ、姐さん」
「う、んん???」
「それと、獣人には好みで靴履かない人も多いんで……。
そういう人のは、こっちの土の上とかで最初に見分けちゃえば、種族と、それに男か女かも場合によっては分かったうえで追いかけられるッス。でも、亜人種はまあ……、靴の大きさからなんでもっと大ざっぱにはなりやすね。あと、普通の獣は、大きさとか指や蹄の数で見分けられるッス」
言われても、ほとんど違いがわからない。
ニカナグの目には、彼の指摘と説明を受けて初めて、ここだけ少し凹んでいる、落ち葉が逆立っている、こっちのこれは肉球の足、とわかる程度で、
『ではこれをお手本に、落ち葉の上にもう一つ足跡を探せ』
と言われたらもう無理である。
「ええ? あたしにも分からないわ……。助手さんって、すごいお兄ちゃんなのね……」
隣で同じように覗き込んでいたアネアもニカナグと同様の意見らしく、心底感心したように彼の横顔を覗き込んでいる。
その称賛に、へへへ、とはにかむ小柄。
こうして実地で説明されると、ニカナグも改めて彼の能力を実感する。これが天賜でも魔法でもないというのが、魔法よりずっと魔法のようだ。
「本当だよ、小柄くん、君……、生まれは〈山人〉って、言ってたけど、君も含めてホントに凄い人たちなんだろうな……。ワタシなんかよりずっと凄いな」
思わず見たこともない異国の山の地、彼の故郷にまで想いを馳せ、真剣に誉めてしまう。
「へ、ヘェッ?!」
……それだけだったのだが、とたんに小柄は両顎のふちを手で挟んで、俯いたまま固まってしまう。照れているらしい。そんなに耳を赤くしなくてもいいのに。
同時に背後に立つ片目うさぎからまでも、
「はは、小柄クンは可愛いですねー」
と穏やかな笑い声が聞こえてくるが、その実、「うわぁ、なに照れてんのキッッショ」とか言いたいように思えるのはきっとニカナグの心が汚いせいだ。
「ひわ……解説おしまいッス! お役目の続きするッス!!」
そして眇目にまでそう声をかけられた瞬間、小柄は弾かれたように立ち上がった。
森の向こうに顔を向けるまでにニカナグの目にとまったその横顔は、目端も口の端もギリギリまで引き攣っていた。もしかしたらニカナグと同じように、彼もぞわぞわが止まらないのかもしれない。
「アネアさん、その……、足跡が急に途切れて追えなくなったって言うのは、どこッスか!!」
「? えっと、こっちですよ……?」
何も知らないアネアが、首を傾げながら案内してくれる。その途中、彼女は歩きながらニカナグたちに訥々と、兄のいなくなった日のことを語ってくれた。
「あたし、実はお兄ちゃんが妖獣に襲われたっていう瞬間を、直接は見てないんです……。でも、ちょうどお昼だったので、同じ畑の隅っこで、先にご飯を食べてました。
お父さんとお兄ちゃんは、まだ少し枝を刈らないと紙の材料が足りないからって、あそこの、茂みの側で作業をしていたんですけど……」
斜面の下、まだ目下に見える先ほどの畑を指さして、アネアの声からは急に、溌剌さが剥がれ落ちる。仮面が取れるようだった。
「でも、いきなりお兄ちゃんの悲鳴が聞こえてきて……お父さんも大きい声でお兄ちゃんの名前、叫び出してて……。
あそこ、通ったからわかると思うんですけど、材料の枝が繁ってるから、反対側からじゃ良く見えないんです。
あたし、びっくりして駆け寄ってったら、もう、あの場所でお父さんが、腰を抜かして立てなくなってました。
お父さんは、『大きい〈虚棲ミ〉二頭が徒党を組んで現れて、一頭がお父さんを襲って押さえつけて、もう一頭がお兄ちゃんを拐って、二頭で逃げてった』って言うんです。でも、お父さんは、腕を擦りむいてるだけでぜんぜん元気そうだった……から……」
「アネアさん……」
「あたしまた、二人があたしのことからかおうとしてるんだって思って、最初はお父さんのこと信じてあげられなかったんです……。
だって、妖獣ってそういう生き物じゃないって……、『もし襲いかかってくるようならすぐ殺されるから、とにかく近付くな。逃げろ』って、あたしのちっちゃい頃、言ってたのお父さんだったし……」
そこではたと、先導するアネアの脚が止まってしまった。つられて立ち止まる後ろの大人二人に視線を向ける。
「特使さま、護衛さん……ウルシンお兄ちゃんて……、大人のみんなが言うみたいに、本当に死んじゃったんですか……?」
「うっ……」
隣から、アネアを戸惑い気味に見つめる小柄も含め、場の空気は冷たく沈んでいく。胸の中ではどう答えようか思考が弾けるが、ニカナグにはいくら考えたところで、やはり
『論理的に言えば生きているとはとても思えない』
などと情の欠片もない言葉しか思い浮かばない。所詮ニカナグは、アネアが言う『大人のみんな』側にしかなれないのだと、言葉に詰まってしまう。
「……さあ? どうでしょうね」
だが、そこで声を上げたのは、ニカナグの脇に立っていた眇目だった。ニカナグは面食らう。彼は小柄を軽く示して続ける。
「そこの『助手さん』は、小さい割にはそういうのは上手いですよ? 後ろを付いていって、お嬢さんが自分で確かめてみては? 案外、そこらへんの木に引っかかって降りられなくなってるだけかもしれません」
「……?!」
「……!?」
当の本人は怒りも苛立ちも感じられない声で、静かに首をかしげているが、
「…………護衛さん……」
見開かれた三人の視線は、木立の中でめいめいに彼を見上げていた。
うち二人は、まるで世界が終わる兆しを目の当たりにしたかのように口をあんぐり開けて、固まっている。
……けれどよくよく考えるとこの、ニカナグの優しさに唾を吐きかけて嗤うような男が、例え子供に対してでも善意でこんな事を言う――。
(――なんて……、そうであって欲しいけど、そんな都合良く行くわけないんだよね、きっと――!?)
真意を求めるように目を落としても、黒い尾はさっきから動きを止めたまま、持ち主の感情は何も伝えない。
「――せ、センパイいま、『上手い』って……?」
一方、ビビり散らかすニカナグとは対照的に、小柄はどうやら別の部分が胸に響き出しているらしく、徐々に、ふんふんと鼻息が荒くなる。
「スッ! アネアさん、行きやしょう! 自分、絶対ウルシンさんの手がかり見つけますから!」
「助手さん……」
アネアの顔に、ふわりと明るさが戻った。
「ありがとう……。あたし、もう一回お兄ちゃんに会いたいな……。
だから、ちゃんとご案内します! 森の中、みんな遊び場にしてるから、普段はこんなに怖い場所じゃないんですけど、ここら辺、住んでる人じゃないとわかんない危ない場所もちょっとはありますから、助手さんも、あたしがそっち行っちゃダメって言ったら止まってくださいね!」
「ッス! わかったッス!」
釣られるように彼女の顔も明るくなり、二人はまた並んで足を進めだした。
風がざわざわ、梢をわたる。
その細い背中を笑顔で眺めながら、確かにぽそりと、眇目が呟く。
「…………生きた状態で引っかかってるかもなんて一言も言ってないのにー。お子サマって本当、純粋ですね? あるじ?」
――……瞬間、森の緑陰に沈み、耳先からしっぽまで、彫像のように動きを止めたその立ち姿に、ニカナグは見開いた目を外せなくなる。
子供相手に、なんて意地悪なんだろう。
けれど『やっぱりそうか』と思うと同時に、その言葉を瞬発的に諌められるような機転を、彼女は持ちえない。
さしものニカナグも、この男とわかり合えるのかどうか、いよいよ不安に駆られてきてしまうのだった。




