137.鎖と轍⑥ -"怪我してないよね?"-
読了目安→5~8分
――「……だっ、ダメですって、それはさすがにダメですってセンパイ……! この女、『商品』と違うッスよ!?」
――「は? 何? 逆らうの? その手どけてくんない?」
「うっ……」
明滅する意識のなかに、そろそろ聞き慣れてきた二人分の声が響く。
続いて、片足が持ち上がる感覚、自分の巻きスカートの裾を、誰かがぐいぐい引っぱり合っている……ような、よくわからない感触が知覚に浮き上がった。
(う……、ワタシ、一体……?)
薄く開いた青い瞳が、路地裏に切り取られた青い空を映す。土埃と、どこか下水臭い路地裏の空気が、ニカナグの滑らかな頬をそよりと撫でた。
(……ん?)
シーナバーナを被っている時、毛皮の頬に当たる風とは全く違う感触だ。ニカナグはハッとして、全ての意識を現実に引っ張り戻す。身体は小屋の中ではなく、壁際の資材の一つに凭れかけさせられていた。
虚空を仰いでいた顎をのろのろと下げると、目の前には眇目。
どうやらニカナグの片足……いや片膝を持ち上げているのは彼の手のようだった。ふくらはぎの素肌を、ざらついて硬い肉球と、毛皮の感触に捕まれている。そしてもう片方の手は、見覚えのある骨片と玉石の首飾り、さらに彼女のスカートの裾を一緒に握り込んでいた。
……あれ、〈祭祀面〉が外されている?
いやそれより、眇目は必死な眼差しで掴んだ裾を捲ろうとしている。そしてそれを、脇にいる小柄が必死に止めていた。
「黙れよ役立たずのクソチビ。キミのせいでこうなってんの。自覚ある?」
「あわー……でもこんなの姐さんの許可なく……い痛っ!? む、無駄っすよ、殴られても自分、こればっかりは退かないッス!?」
「……な、何してるのっ……」
身体が強ばる。かなり破廉恥なことをされている気がする。
瞬間、二人が揃って勢いよくニカナグを見た。
「か、カナイナ姐さん……!」
小柄の眉は、こっちに振り向きざまハの字に下がった。取り上げた彼女の手を、両掌がギュッと握ってくる。
「姐さん大丈夫っすか、痛いとこないッスか?! 自分のせいでこんな……あわ、そうだ、魔力切れ、起こしてませんか!」
「だ、大丈夫だよ……?」
わずかに震える声に、彼の申し訳なさと安堵が全部乗っているように聞こえた。やっぱり子犬みたいな目で見つめられる。
そしてその隙を突くように、眇目もまたニカナグに話しかけてくるのだ。
「ねえ? 大丈夫? 怪我してないよね??」
「……えっ?」
信じられない。心配されている。
……しかしこちらは、驚くほどにぜんぜん目が合わなかった。細めた眼差しが落ちているのは、今はもう、ニカナグの黒いスカートに刺繍された花柄の上だ。
「ねえ言ったよね、『暫定サマに傷が付いたら困る』ってさ? 怪我は? 確かめさせてくんない? いっそ全部脱いでよ」
言いながら、また執念深くスカートを掴む。やはり中を覗こうとしている。その目付きは、落としてしまった高価な陶器のひび割れでも探すようだ。
「おわー、だからセンパイ、そんな『商品』の改めみたいなこと、姐さんには!」
「ひいっ。まってまって?!」
流石になにを考えてるんだこの男は!
ニカナグも慌ててその手から逃げ、木箱の下に膝を抱える。
しかし、そこで顔を上げると眇目は怒っていて、それからやはり恐ろしいほど真剣だった。
(う? どうしたん、だろう……?)
「あのさ、この首飾り外してみて、中身は無傷だったから良かったけど、他の場所に傷出来てたら……ねえ、アンタまじでどうしてくれんの? 僕とご主人サマの契約の話忘れてない? 三日後に一回、あの人と会うんだよね?? いくら僕が仕事したって、当の荷物にそんな無茶されると護衛のしようもないんだけど!」
嫌味ったらしい言葉と動作の端々から、必死さがこれでもかというほどに伝わってくる。
「傷は魔法で治せても、跡はしばらく残るし?! 万一そこが熱もって膿んだりしだしら、そっちは一瞬じゃ治せないんだからさ! そしたら、ごまかし切れるかわかんないじゃん! バレたらどうしてくれんの? ねえ耳聞こえてる?」
(ああそういうこと……?)
府に落ちた。小柄は、ニカナグを本気で心配してくれている。
しかし、この男が心から案じているのは……。
(……まさか、とは思ってたけど……、眇目くんは、私の中身の方には全くさっぱり興味がないんだな……?)
しかし、そんな風に扱われても、ニカナグは彼に対して嫌な感情はまったく抱かなかった。
そもそもがずっと怖いと思っていた相手である。ゆえにむしろ胸を覆うのは、薄いベールのような乾いた安堵だった。
だって、つまりこの男は、本気でニカナグに傷一つ負わせぬよう立ち回ろうとしているらしい。ニカナグのためではない。自分自身の、命と保身のために、だ。
――それは、逆に言えば例えどんなに口汚く脅されようとも、彼はあのソルスガとの『護衛の契約』が続く限り、ニカナグにだけは危害を加えられない、ということでもあった。
そうして今この瞬間をもって、ニカナグはこんな下劣な男に対し、小柄とはまた別の意味で絶大な信頼を置くのだ。
串を奪われたときも、不思議には思っていた。だがこれで彼女は確信する。
(そうか……、彼もソルスガ様が怖いんだ……)
一度、主の手先に殺されかけたことがそうさせているのかもしれない。ちょっと神経質すぎるくらいだ。
それならば、これからは不必要には怖がらずに対応できる。三日後のハナトたちとの再会時にも、眇目にきちんと事情を話せば、解呪も簡単にすませられそう――……な気さえしてくる。
……ハナトの気持ちを思うと、やはり、全然取りたくない手段なのは変わらないのだけれど。
それでも、信じようと決めた言葉が思い出される。
他人に興味を持つこと。できうる限り人に優しくすること、だ。
そうやってあともう少し、どうにかして眇目と打ち解けられれば、全部うまく行くかもしれない。虫が良すぎるだろうか。
それでも、糸口を何も思い付かないよりはましだ。少しだけ目の前に光が開けたような、清々しい気分になった。
「ふふ、すまない。介抱してくれてありがとう。眇目くんは頼もしいね……」
「は? なに笑ってんのキッモ……」
「あはは……じゃあ、そろそろ行かなきゃだね」
一度昏倒した身ではあるので大事を確かめてゆっくり立ち上がろうとする。
すると脇にいた小柄が慌てて、ニカナグのために腕を伸ばしてきた。
「ね、姐さん……、大丈夫ですか」
「あっ、ごめん、大丈夫だよ……?」
別に普通に立ち上がれるので、屈んだ姿勢のままふと顔を見る。小柄は伏し目がちに唇を噛みしめ、思いの外ずっと深刻そうな表情をしていた。ニカナグは逆に心配になってしまう。
「……ど、どうしたんだい小柄くん?」
「す、すいやせん、ごめんなさい、自分のせいでこんな!」
すると小柄は、その場で急に跪き、深々と恭順の礼を取り始めた。
「えっ、な、なに」
戸惑いながらも背筋を伸ばしきる。ようやく彼女の視界に周囲の現状も映る。
縮こまる小柄の向こう、あの傷持ちはもちろん、小柄に襲いかかっていた月輪族のほうも、恐らくは眇目が片付けたのだろう、眇目の背後で仰向けに白目を剥いて昏倒していた。
(い、生きてる、よね……??)
一応〈魔法族の眼〉で確かめてしまうが魂はちゃんと中に居る。安堵するニカナグだが、その間に小柄が、どことなく涙声になりながら話し出す。
「カナイナ姐さんにご迷惑お掛けしたくなくて、うまくやったつもりだったんスけど……。どういうわけか足がついてしまって……!」
「う、ん……?」
「余計にお手を煩わせてしまった上に、姐さんに気を失わせるなんて、自分……どう落とし前をつけていいか……」
「まってまって? とりあえずいいから立って?」
ぜんぜん分からなかった。慌てて小柄を引き上げようと屈んだところへ、眇目の呆れたようなせせら笑いが届く。
「あーウザいウザい。もう愉しかったからいいでしょー? いっぱい暴れて気分いいし、今日のところは許してあげる」
「せ、センパイ優しいッス……」
「えっ、なっ、なに? なんの話をしてるんだい……」
ニカナグは、一人立ち上がって奔放に伸びをしている眇目を見上げる。目が合った。
すると彼は、一瞬そのままの姿勢と真顔でピタリと動きを止める。
――直後、彼はいたずらっぽい……と評すにはあまりにも邪悪すぎる表情でニヤリと笑んだ。
「……小柄ぁー?」「うっ、ス?」
「ご主人サマ、困ってるよー? お人好しで僕らみたいなのにも激甘で、とーってもやさしーい僕らのご主人サマにもさー、わかるように、経緯はちゃんと一から説明してあげないとでしょ? それじゃー謝っても伝わんないよー?」
「おわ、確かにそうッス……」
すいやせんでした……。と素直に悄気ながら、小柄は腰のすりきれた布製の物入れに手を掛ける。程なくして出てきたのは、彼が武器屋で烈鏃その他を買い求めるとき、
『カナイナ姐さんにご負担はおかけしませんっ』
と得意気にカウンターに置いていた、あの造りのいい革財布だった。
彼はそれを、ものすごく申し訳無さそうに手渡してくる。彼女も、訳もわからぬまま受け取った。
そうして小柄は眇目の後ろを……――地面に生えっぱなしの石柱から少し離れ、今は倉庫の手前辺りでのびている月輪族をスッと指差した。
「バレちゃったんス、あっちの、顔に傷のない方の月輪族から、ソレ盗ったの……」
「えっ」
手に乗せられた財布の重みが、一瞬で別の感触を纏ってニカナグの腕にのしかかってくる気がした。
「……えっ……?」
「本当に、申し訳ありませんでした……!」
彼女の脳内に、さっき通りで月輪族たちにぶつかったときからここまでの記憶が、まるで走馬灯のように再生される。
目の前の、上目遣いで申し訳なさたっぷりに眉を下げる小柄を見つめる。……が、
「…………」
――おわー、どんなふうに変身すんのかなって、見たかったんスよ! すごいッスね――
初対面の瞬間から信じてきた彼への印象を捨てきれないニカナグは、そのまましばし固まってしまう。
「……ねーねー? 暫定サマどうしたのかなー? 今どんな気持ちー?」
眇目が長身を屈め、長い耳と笑顔で彼女を覗き込んでくるも、お人好しな彼女はそれに対してすら、しばらく反応することができなかった。




