132.鎖と轍① -無頼の瞳-(上)
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夜明けは過ぎ今朝も快晴だった。ハナトとの再会の約束まで今日を入れて残り三日。初夏の爽やかな日差しが、開いた窓の外に影をつくっている。西向きの部屋は、穏やかに薄明るい。
今、ニカナグたちがいるのは、ずっと使われていなかった使用人の部屋だった。敷物はなく窓幕は無地。二段ベッドに、小さい机と椅子、長持がおかれただけの簡素な部屋だ。
『……読む、よ?』
『ッス……』
ベンチ状になっている出窓に座り、ゴクリと唾を飲む小柄に、ニカナグは目を向ける。彼の視線は、彼女の手元の書簡から動かない。室内には他にエニ夫妻もおり、人間はニカナグも入れて全部で五人。人の密度が妙に高い。
ニカナグはやはり〈祭祀面〉を被っている。
ただ、今この場には、彼女の正体を知る者しかいない。使用人はおらず、隠す意味がないため、見た目はともかく、名前だけは仮面をはがす。
『えっと……【敬愛するニカナグ女史へ】――』
小柄は他の多くの者と同じく、字が読めない。確認してはいないが、眇目もおそらく同じだ。
けれどソルスガからの手紙が届いたと話すと『中身を教えてもらえないか』と小柄が乞うので、ついでに読み聞かせることになったのだ。
これは今朝はやくに、玄関の扉を叩いたというソルスガからの使いが持ってきた書簡だった。
『〈――わたしの側近から話は聞いた。貴女の意見を全面的に通そう。
貴女が眇目を使う際の条件は、待遇・懲罰共に小柄に与えたものと同様の条件とする。ただし、それに加えて、眇目にのみ以下の条文を追加する。
一、眇目が、正当な理由なく領民に危害を加えぬよう、監督されたし。
一、眇目が、商会に不利益を起こさぬよう、監督されたし。
一、上記二つのどちらか、乃至、両方を眇目が破ったことが確認されし時は我が"影"を放ち、即時、眇目は処刑とする。
一、眇目は、ニカナグ女史に傷一つ付けぬよう護衛の役目を果たし、次はないことをその心臓に刻むべし。これよりの慈悲はない。
以上。
貴女は、眇目にかかる本件に関しては『死をもって贖う覚悟がある』そうだな。しかしいくら貴女の要望とはいえ貴女の尊い命を、商会の不始末の道連れにするなど、私には到底耐えられないものだ。
ただ、一方ではニカナグ女史の覚悟もまた美しく、応えないのもまた失礼だと考える……。ゆえに、悩んだが妥協案を考えた。
万一の時は、貴女には『ケジメ』をつけてもらうこととする。出来れば、そのような事態には陥らぬことを望むがね。……それでは、三日後の定例報告にまた会おう。健闘を祈る。
親愛を込めて。
ソルスガ・アフェイーグ〉』
ちなみにニカナグ本人は届いてすぐにこれを読み、この部屋でも音読しているので目を通すのは二度目だった。でもやっぱりこの一番大事そうな部分だけは意味がわからない。ニカナグは知らない、なにかの専門用語のようだ。
『……と、いうことなんだけど……け、ケジメってなんだい……? 処刑とはちがうのかな?』
小柄なら知っているだろうかとおそるおそる顔を上げると、小柄はかすかに唇の間へ隙間を作ったまま、青い顔をして固まっていた。
その隣では、二段ベッドの柱に寄りかかるダカントラまでもが眉を吊り上げている。今朝、眇目が目覚めたと聞いてからずっと不機嫌そうなダカントラだったが、その中でも今が一番、険しい顔をしている気がする。
『えっ、えっ、なに……』
『カナイナ姐さん、本当に申し訳ありません、自分があんなヘマしたから、警護長から護ってくれて、こんな……』
両頬を手で挟み、深刻そうに俯きだす小柄。その横で、大叔父が怒りのこもる低いため息と共に口を開いた。
『ニカナグちゃんよ、それはな……』
しかしそんな真剣な空気も、横から挟まる軽薄な笑いに遮られた。
『――……ははっ、手足をどれか一本、切り落とすくらいで許してくれるみたいだ? 良かったねー?』
『っ、てっめえ……!』
途端、ダカントラが部屋の反対隅、ニカナグの視界の外へ鬼のような形相で詰めよって行く。
彼女が首を回すと、胸ぐらを捕まれた眇目がダカントラを見上げ、へらへらと嘲笑を浮かべていた。
そう、この部屋にはニカナグ、ダカントラ、エニ、小柄の他に――……何を隠そう隻眼の彼がいるのだった。ここは昨夜、彼と、彼の容態を見守っていた小柄が寝泊まりした部屋でもあった。
小柄がその間へ割って入っていく。
眇目の目が覚めたと教えにきてくれたのも、ここまでの事情を前もって眇目に伝えておいてくれたのもこの少年だった。
『おい! 手前の命の恩人に向かってなんだその態度は!』
『ッス、ッス、申し訳ありません旦那さま――――』
◆
「はぁーー……」
汚れた口端を拭いたナフキンの角を眺め、ニカナグの胸にはさっきのそんな光景が全部フラッシュバックしていた。
思わず、盛大なため息が唇の隙から漏れる。
あのあと、朝からニカナグのせいで顔色が悪いエニがさらに制止に入り、一旦は小柄と眇目を残して部屋を出たのだ。
一階奥の廊下は人払いをしていたが、人が出てくる気配に気付いたのだろう、女中のサニャが厨房から顔を覗かせ、『朝食ができた』と知らせてくれた。
今は食堂に三人、入り口から見て、一番奥の席にダカントラ、その両脇にエニとニカナグが座る形で並んでいる。
「……あらあらサニャ、今日のパン、いつもより美味しいわね」「まあ、わかりますか奥さま。女中頭が使う粉を変えたんですよー!」
大叔母の調子は、今朝から良くないはずだ。ニカナグが無理をさせすぎた。
それでも食欲はあるのか、エニはいつも通りの態度で給仕をしてくれる中年の女中と談笑する。しかし普段は機嫌よくその輪に入る大叔父の方は、無言である。エニがなだめても、まだ溜飲が下がらないらしい。
この部屋は広く、十人ほどで囲める細長い食卓が据えられている。ただ、朝の日差しが射し込む室内には、女中を入れても四人しかいない。
食事は根菜たっぷりの暖かいスープと、ナッツが練り込まれた焼きたてのパン。それから上品な香りの燻製肉に新鮮なチーズを千切って、赤茄子と一緒に焼いたものがメインに据えられている。隣には半熟の目玉焼きが添えられる。
全部ニカナグの好きなものだ。でも、
――手足をどれか一本、切り落とすくらいで許してくれるみたいだ?
(さっきの眇目のことば、叔父さんは言い方に怒ってたけど、誰も否定しようとしなかった……)
つまり嘘ではないのだ。あの卑屈な片目の笑みまでを思い出し、色んな意味で好きなものを食べているという実感も湧かなかった。
「……ごちそうさまでした……」
結局味がわからないまま最後の一口を飲み込み、かたん、と木の匙を置く。
昨日は、アナイに怯える小柄を守りたい一心であんな啖呵を切ってしまったニカナグだった。あの瞬間、ちょっと後悔した。
それでも正直、どことなく何とかなるだろうとは思ったのだ。
ニカナグの新しい主は確かにぜんぜん抜け目がなく、彼女にキツい鎖を巻いて来るが、同時にニカナグにとって利のある話もきちんと用意してくれている。
彼の手から逃げない前提で話を組むなら、そこに差し出される蜜の甘さは、まさに進んで口に入れたくなる程度には抗い難い。
それはある意味では確かに口ひげの従者の言う通り、『アナイと違ってソルスガは優しい』といえるのだろう。あるいはそれだけのものを与えてくれる分、ニカナグを気に入っている。
だからアナイさえ突き通してしまえれば、ソルスガなら『分かってくれる』――……のだろうと、あのときは思っていた。
そうして本当に彼女の主は、ニカナグに関しては命までは取ろうとしなかった。
……しかし思ったより甘くはなかった。言ったぶんの責任として、罰としての代償は確かに下達されたのだ。
(ぜ、全然優しくない内容だった……)
正直、眇目のあの態度を思うと前途に自信は持てないし、むしろ恐い。普通に恐い。
ソルスガは、言った以上は約束は守る男だと、ニカナグはそれを肌で感じている。悪事を働いた眇目は実際に殺されかけた。
……腕だって足だって、切られたらきっと痛いだろう。
言った責任はもう背中にのしかかっているが、冷静になってしまうと腹を括りきれない。
言葉って怖い。勢いって……もっと怖い。




