131.渦⑩ -渦芯-(下)
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側近の言いたいことは、一応は彼も理解できる。これが定石だったのなら、きっとソルスガもその道を選んだのだろう。
「――――残念だがアナイ、それはできないよ?」
しかしソルスガは首を横に振った。
こちらとて、『商会の面子のため』という表向きの理由だけで、あの〈稀人〉の子の保護に踏み切った訳ではない。
ハナトは、お大師さまの弟子二人に保護されている……――この事実が、かなり重かった。
ソルスガは個人的にあの二人が好きだが、それ以上に弟子たちの心証を悪くすれば、下手をするとお大師さまの機嫌まで損ねかねないのだ。
「せっかく長い時を生きる異形が、滅亡したアビ士族に代わり領内の守護をかって出て下さっているのだ。子々孫々の益を潰すなど、愚の骨頂だろう」
そんなことを淀みなく言いきると、聡明な側近も納得したようだった。それからふと、ソルスガは揃えた指先を唇に添える。
「……それに、ペリタも後ろ暗いルートで動いているだろう? うちの狗を勝手に使い走りにしようとしている時点で、公には手を回せまい」
すると口ひげの彼も
「確かにそうでございますね……」
と、真剣な顔で腕組みを始める。それからアナイはふと、いつも以上に温度の失せた声でソルスガをじっと見つめてくる。
「……なれば、あの、残る狗どもはやはり全員廃棄、ということになっても問題はないのですかな?」
「うん……? ああ? ……そうだな」
そこでソルスガは、ふと首をかしげた。この側近は、普段、一度決めたことを改めて確認してきたりはしない。だが、とりあえずは言葉を続ける。
「ここまでの大事になるとは流石に思わなかったが、こうなればそれは余計に変えられないな。
あの国の上層と癒着しているとなると、我々も手に負えない。たとえ抗議に出たとて、向こうのやっていることは、客観的には『辺境の商会の末端で起きた腐敗に客として関わっていた』という体に収められる」
「おっしゃる通りですね……。告発したとて、向こうの傷は浅く、こちらの責任は深く取らせ、最悪こちらが不利な立場を被らされましょう」
「だろう? ゆえにあの群れは余計にもう、静かに解体してしまった方が早い。狗共も、元がもう少しマトモな奴らなら、まだ全員守ってやる気も起きたのだが……」
ため息混じりに憂いた。
それでも不祥事が発覚したあと、ソルスガは一度はムチ打ちに訓戒を授けただけで、狗たちを解放した。
不合理と解りつつもそれで済ませたのは、ひとえにそれがソルスガの優しさであり、愛だったからだ。
すると、急に言葉を切った主の沈黙を拾うように、アナイが問うてくる。
「……もう一度確認したいのですが、どうして狗どもをすぐに一掃なさらないのですか? ……小柄? でしたかな? あのように、狗の子一匹まで、お手ずから『影』の候補としてこちら側に引き入れて……」
「……うん? ……ああ、三ヶ月前、私が商会を継承したあと、蓋を開けてみれば、ここは余りに管理が杜撰だったろう?」
アナイは黙って頷くのを目にいれ、ソルスガは続ける。
「――汚職の中心にいた前任の番頭や、それに近い関係者への尋問もあった。その頃からの、"群れ"の奴隷たちの素行は記録は残っているが……――」
頬杖を突きながら、彼は隣の書類の山の一番上から、群れ面々について書かれた小さいリストを手元に引き出す。
記載された『小柄』の名に、とん、と指をおいた。
なんとなれば人の生まれついての本質は善にあると、ソルスガは深く信じている。
一方で汚泥の中に浸かって穢れないもの。もう汚れて底に沈み、二度と浮かぼうとしないもの。
色々いるのも解っている。
理解しているがゆえに、まずは軽い罰を与えて、彼は試したのだ。それを慈悲ととらえて、悔い改めて欲しかった。
だが残念な事に、今回の多くはその愛と期待に何も返してはくれなかった。人は財だが、期待に応えぬのならばそんなゴミは一掃せばならない。
それでもこの少年だけは、ソルスガの目には違って映っていたのだ。
「あの少年は、そもそも生まれつきの奴隷ではないせいか、元から"群れ"の在り方に染まりきっていないように見えた。……まあ、奴隷落ちの理由はよくないかもしれないがね。
だが今回、与えた仕事にも積極的だったし、群れにいる間もずっと監視役に回るだけで、『商品』たちにも悪さをしなかったときいている。
アナイ、ハウ=アザラとイチヘイ氏の取引の現場にも、アレはいただろう? ハナト嬢の後ろで、彼女を繋ぐ鎖を握る役をさせられていた」
「……我輩は、あの場にいた汚い"狗"の顔なぞ、いちいち覚えておりませぬぞ」
「ふふ、私はその様子も観察していたが、あれはハナト嬢の扱いも優しかったのだ。弱いものに対して紳士だな、アレは」
満面の笑みで側近を見上げた。
「……まあ要は個人的に気に入っている」
すると隠すこともなく呆れた顔を返された。
しかし気にしない。そのままソルスガは、眇目の欄にも視線で触れる。
逆にこの男は、"群れ"の仲間も、それ以外も、記録上では殺しすぎている。だから一度はゴミとして、一番に処分しようと思ったのだ。しかし、
「眇目は…………、まあ、確かに危険因子ではあるがね。護衛にしたいと言うのは、ニカナグ女史のたっての希望なのだろう? 確かに、彼女の言い分にも合理性はある。
成り行きで方針を変えてしまうことにアナイが不満を覚えるのも理解するが、こちらとしても、未だ手駒は少なく、彼女は無防備だ。
私としても内情を知り、腕が立つ者を彼女のそばには置いておきたい。
……それにノナウ婆から聞き流すままにしていたが、この二人、手を繋いで街を歩いていたと聞いたぞ?」
いたずらっぽくアナイを見つめ返すと、とても微妙な顔を返される。しかし気にせず続けた。
「なんにせよ、今のところの合理性は十分さ。
面白いからあの二人には『枷』を増やして、このまま様子を見てみようじゃあないか。運命のいたずらの、その成り行きというものを。アナイ」
すると、厳格な側近の表情は明らかに不満そうな色に曇る。ぽろりと零れるように漏れる言葉と共に、細めた目でじっと凝視された。
「……こんな不合理なことなどなさらずに、このアナイにご命じくだされば、あの女も含めてまとめて処分いたしますのに」
「処分……?」
顔を上げ、一瞬、片眉を跳ねるソルスガだ。
すると奥ゆかしい彼の側近は、無言を返事として静かに目を伏せる。
ソルスガは金色の前髪を揺らしてハハハ! と快活に笑いだした。そうか、納得していなかったからわざわざ確認しなおしてきたのか。
主を思ってくれる、この男の気持ちは何時だってありがたい。しかし彼の考えは、常に少し清潔すぎるのだ。
「もったいないことを言うな、アナイ。
『使えそうな毒は薬になる』ものだろう?
人の縁、運命だってそのうちだ。成功の暁には、眇目にも小柄と同様の待遇をやっても良い。今回のこれは、そのための見極めにもなる。
私に真に忠誠を誓ってくれるならば、駒はいくらあってもいいものだと、常日頃から、言っているじゃないか――例えば第一の忠臣たる貴君のように」
すると老いた男は虚を突かれたように唇を尖らせ、そわりと目を逸らしてくる。
「照れなくて良いだろう!」
「……老いぼれをからかうのは大概になされい」
銀鼠の瞳は可笑しそうに笑った。その奥に宿る光は、やはり底が知れない。
「……まあ、今のところ、君の"影"たちに追わせている"群れ"の連中と大佐に動きは無いようだ。ならばもう少しだけ、あの二匹が『向こう側』に寝返らないか、見極めるためにも放置しておきたい。
……どうせ崩すのだから、残りの"群れ"だってもう少し活かしてもいいだろう?」
そこにあるのは朗らかで爽やかで、見るからに慈愛に満ちた微笑みだった。
逸らされていた厳めしい瞳が、彼の元へもどってくる。
「……はあ、相変わらず、坊っちゃんは趣味がよろしいですね。……そんなことをしてらっしゃるから余計に忙しいのですよ。全く危なっかしい」
「愛すれば愛がかえる。私はそう思っている。だからこれは全部、私から彼らへの愛と敬意さ? そうだろう?」
するとアナイは、その微笑みには同意するように跪き、彼へと恭しく恭順の礼をとりはじめるのだ。
「それについては、ごもっともでございます。坊っちゃん……――いえ、我が主」
涼しい夜風が、窓幕を揺らして入り込んでくる。ソルスガは目を細めて、足元の忠臣を見つめた。
「私のために忠義を尽くしてくれて、いつも助かっている」
「こちらこそ、このような老いぼれの身に余るご厚心を賜り、恐悦にございますぞ」
その言葉を耳にして、ふふ、とソルスガは頬を緩めた。それからふと逸らされた銀鼠色の瞳は、暮れきって、わずかに残る空の朱を眺め出す。
「……あの二匹、それでも使い物にならないようなら、そのときこそは宜しく頼むよ、アナイ」
「お心のままに」
穏やかな声。応える声。
それは人の心を持ちながら、常人には持ち得ない視座の冷たさを、確かに孕んでいた。




