130.掬いの手⑥ -掬い上げるは正か誤か-
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ザワつく心を鎮めるように、彼女は一度自分の置かれている状況を振り返る。
ひとつ、ニカナグは嘘が下手だ。事実を隠し、虚構で人を騙すような駆け引きなんてできない。
ひとつ、ニカナグは、今言ったように小柄と共に眇目を助けた。それもまた、紛れもない事実だ。
ひとつ、それは例えどんなクズ野郎だとしても、ニカナグにとっての眇目は、まだ息をして貰う必要のある存在だからだ。
ひとつ、そしてニカナグは眇目も小柄も、この口ひげの男に預けたくなどもない。
利益のためだけではない、渡したらきっと殺される。命は一個しかないのだ。だから立ちはだかっている。
……どれも、ニカナグの嘘偽りない心である。
でも、なら余計に、いまの彼女が嘘を吐かずにこの男に訴え出れる道筋なんて、一つしか思い付かない。
アワアワと考える、考える。それから言葉にする。
「わ、わわワタシは、彼に死んでほしくなかったから助けたんだ。ワタシは、人材として、眇目が欲しい! だからまだ、……まだ殺さないでおいてくれないか!?」
瞬間、小柄は光をみたようにニカナグの背中を見上げた。ダカントラは驚愕の表情で、姪孫の顔へ釘付けになった。
小さく「あらまぁ……」と呟かれるエニの感嘆を背景に、岩のような硬さでアナイの声が返る。
「……若旦那さまがそれをお許しになると?」
ニカナグは叫んだ。
「そ、そんなの、ご主人様に訊いてみなければわからない、じゃないか!?」
すると冷たい目で無言の圧だけが返る。ひえっ、と小さく息を飲みながらも、ニカナグはどうにか食いかかった。
「そ、ソルスガさまは、いい人材を付けてくださったとワタシも思っています! 小柄くんは、こちらの顔色を読んで、意図を汲もうとしてくれる。良い助手になってくれそうだと思う!」
少年を見ず、手で背後だけ示す。急に名を上げられた小柄は、その言葉を目を丸くして聞いている。
「でも、祝福持ちでない以上、も、申し訳ないが人族の彼は獣人種のようには動けない。
確かにワタシなんかと違って彼は地の利には明るいようだから、剣というよりはベールやマントのように、この町で、変な奴らからワタシを隠してくるのには役に立ってくれる、と思う!」
――――するとアナイはたった一言、「それで?」と言った。自分になだれかかってくる巨岩を前にするような威圧感だった。
「ひぇ?!」
こわい。
しかし食いついた。
それは確かだった。
陸に上げられ跳ねる魚のような心臓に息苦しさを覚えながらも、彼女は自分を鼓舞する。
このアナイという男は、『ソルスガの為に』と規律正しく動いているように見える。なのに同時に、ソルスガの為であれば、どんな規律さえなんとも思って居ないようにも見える。なにせ今も、その為だけにダカントラの制止も聞かず、この部屋に勝手に踏み込んで来ているのだ。
――その、矛盾する意志に、どうにか響けばいい。
(だ、だだだ大丈夫、これは講義、これは講義、イチヘイくんたちのところでもそうだった、講義で話してると思えば、こわっ、こわくない、こわくないいいうわァめっちゃ睨まれてるううう……!!)
「――し、しかし、彼はただの人族だろう? ワタシも腕っぷしは弱いんだ。彼にも魔力がない以上、妖獣相手の調査で森に出て、万一妖獣と遭遇してしまったら、全滅もあり得るとハリバさんも思わないのかい? 『妖獣の出所を外に漏らさない』とソルスガさまから守秘義務を課せられている以上、ワタシも安易に外部から人を雇うこともできない」
気づけば拳を固く握りすぎて、食い込む爪が痛い。声が震える。けれど言葉の火は絶やさない。
「す、眇目の戦いぶりは、お大師さまの家を彼らが襲ったときに目撃したけれど、彼は祝福持ちのイチヘイくん相手に奮戦していたんだ。あれなら申し分ない、と、思う!
彼には……彼にはワタシの、万一の時の剣、あるいは楯になってほしい。そのために手元に欲しいんだ。……そ、それも、それこそソルスガさまの夢を、ご意向を無碍にしないためにも、これは必要な措置だと、ワタシは考えている!」
言いきった。無理があったろうか。それでも、
(だ、出した! 最後にソルスガさまの名前も出した! こ、これでどうだ!)
不安を隠して虚勢で見上げた。
「…………………………………………。」
しかし予想外になにも返らない。その死んだような空白には、始めにあったはずの威勢も萎みかけてしまう。
「――――……あっ、あっ、その……。どう……で、しょうか……」
「…………『責任』は」
「はっ、ひぇ?!」
一拍置いて、思わず俯く視線が床を撫でた瞬間、そう問われる。ニカナグは慌てて顔を上げた。
「……吾輩は、あれが今も生きて、呼吸をしていること自体が我が主への不名誉、護るべき領民たちへの凌辱だと考える」
変わらず険しい顔だった。しかしそこにふと浮かぶ眉間のシワは、主の敵へ向ける感情の落ちた殺意ではなく、眇目という狗に向けた純粋で個人的な不快感のように見えた。
ただそれも、すぐに冷たい鉄仮面の下に戻る。
「あ、え?」
「……いや? いい、下らない。
ならば、あれを生かすと言うならば、その責任は誰がとるのだ? そこまで言うのならば、あれが領民や我が主に何かしでかした時、当然、ゲライゼ女史も、あのゴミと共に泥を被って死ぬ覚悟がおありなのでしょうな?」
「せ、責任……」
「おい、何を言わせようとするんだ……!」
「カナイナちゃん……」
ただ、アナイの後ろからそうやって引き留める二人の声は、今のニカナグの耳には入らない。
正直、彼女もそこまでは考えてはいなかった。しかしここまで来たら後には引けない。問い詰められて、気付けば手元にあったのはもう勢いだけだった。
「――――と、取ります! わ、ワタシが彼を監督しますから!」
――途端、それを聴くそれぞれの驚愕が、静かにその場の空気を揺らがせた気がした。
沈黙の中で、アナイの鷹のような視線が彼女を値踏みするかのごとく刺さる。その余韻も消える瞬間、ニカナグ自身も言ったことを今さらちょっと後悔しだしていた。
「あっ、えっ? あっ……」
(やっぱり辞め――)
「……うむ、そこまで仰るならば、承知した。我が主に取り次ぎましょうぞ」
白髪混じりの口ひげの下から、決してニカナグに迎合したようには聞こえない、鋭いため息が漏れる。
「……だが思い上がるな、若いの。それを益とするかどうかは、若旦那さまがお決めになることだ。……主のご返答をまたれよ」
これは、今さらやっぱり無理ですなどと言える雰囲気ではない。
「はっ、わっ……。はひ……」
そうして彼は、
『もし次、我輩がこの家を訪れる時には、交渉の余地などないと思われよ』
そんな言葉を残して、滑るように部屋をあとにする。
引きずられるように玄関先まで見送ると、門の前には何時からいたのか、先ほど中庭で見かけた縞尾族と人族の女が待機していた。……だがその背中もアナイに追従し、あっという間に薄暗い街灯りの闇に紛れて見えなくなる。
……その後、ふらふらと腰を抜かしてしまったニカナグは、もちろんしこたま、ダカントラに怒られた。




