125.掬いの手① -幽かな命-
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行きは馬車に乗せられたものの、アナイと、恐らくはその配下の者たちにあんな光景を見せられたあとでは、とても送り届けて貰う気にはなれなかった。
申し出を断り、徒歩で叔父の家に帰る。
幸い、あの酒場通りの店から邸宅までよりは近い。歩いて三十分もあれば着くだろう。
ニカナグはチラチラと、ほぼ友人の距離感で隣を歩く彼を見た。
仔犬のような人懐っこい笑みが、彼女の掲げるカンテラの灯りに揺れる。
薄ぼんやりとした、頼りない黄色の灯だった。
「……つ、着いてくるんだね、きみ……」
「小柄っス、ニカナグさまよろしもごっ?!」
ニカナグは慌てて彼の口を覆っていた。
ただ、ここはまだソルスガの邸宅のそばだ。周囲には同じような豪邸が並び、人影は全くない。
良かった。
今のうちに訂正しておく。
「か、『カナイナ』、ねっ? 事情を聞いてくれてたなら、この先はどこでもずっとそう呼んでくれないかい、……こ、小柄くん」
「申ふぃわけ無いッス、カナイナさま!」
あの悪辣な"群れ"にいた割には聞き分けの良い少年である。
助かった、と思いながらニカナグはまた歩みを進めた。
口から手が外れた彼は、申し訳無さそうに下を向いた。
「その、警護長さまからの言い付けで……」
警護長。アナイのことだ。
「カナイナさまに会う前に、『お前たちの主さま、たってのご希望だ。ゲライゼ女史からつかず離れず、きちんとお役目をまっとうするように』って、命令を受けてるんで、家の前まではお送りするッス」
家の前。
(ん? でも、そうしたらその後はどうするつもりなのだろう?)
「……つ、つかず離れずって言われてるのに、大丈夫なのかい……?」
さっきのソルスガやアナイのそのトーンでは、下手をすると彼の命にまで関わって来るかもしれないのにそんな目を離しているところを見つかったら――――、
「地面で寝るのは得意っス! 朝になったら、お宅の前で出てくるの待ってるッス」「うんわかった! 叔父さんと叔母さんには談判してあげるから、せめて屋根のあるところに居ようか!?」
とても朗らかな彼の返答へ即時に応えながら、さすがに内心では頭を抱える。
小柄は、聖人君子でも目にしたような顔で、
「か、カナイナさま、良いんスか、聖女さまかなんかなんッスか?!」
と両手を胸の前で組んで、彼女を拝みだしていた。
いや、ニカナグだって本当は居候の身である。が、さすがにそんな境遇を知らされて『外で寝ろ』は、人の心がないだろう。
幸い、彼は礼儀もあるし人懐っこい。たまにお金の無い若い傭兵を、徒弟の名目で下宿させることもあるというエニとダカントラは嫌がりはしない、と思いたい。
そのまま歩みを進めて橋を一本渡ると、だんだん景色は雑然とした集合住宅街に切り替わっていく。
積み木のように重なる家々のなかに、時折、雑然として汚い酒場が紛れる下町区だ。
ニカナグは、こっちの方面に用ができることはないためこの辺りの道はよく知らない。ただ、今はスラムになっているときく旧市街とも、内壁を挟みつつも縁の深い場所ではあるらしい。
木蓋がされた側溝の隙間からどぶ臭さが漂うなか、がははは! と軒先で笑い合うガラの悪そうな酔客たちの脇を抜ける。するとその中の一人がこちらに下卑た笑みを向けた。目線だけキョロキョロ、周囲を見渡していた小柄の表情が少し重たくなる。
「カナイナさま、早く抜けましょう。ここ、旧市街ほどじゃないんスけど、治安よくないんで……」
幸いニカナグを見ていた酔っぱらいはを後ろをついてはこなかった。
早く目抜き通りに出た方が良いから近道を案内する、と申し出てくれた小さい背中を水鳥の雛みたいにひたすらに追いかける。細い道は入り組んでいて、時折、彼はなぜか塀をよじ登るためニカナグは狼狽える。
挙げ句、『そこって他所の家の屋根だよね?』と突っ込みを入れてしまう場所も通ったが、一段高くなった視界からは、確実に目抜き通りの喧騒が近くなっているのが感じられた。
「もうちょっとッスよ!」
しかしそれはどんくさいニカナグが、少年の手を借りて塀から飛び降りた、そのすぐ後だった。先に次の角を曲がっていた小柄が、急に立ち止まる。
「ヴェッ!?」
突然の停止である。その背中に、ニカナグが突撃する形になってしまった。小柄は一歩つんのめるも、なぜか無言。そのまま微動だにすらしない。
「うん? 小柄くん、どう、し……」
不思議に思って、脇から背中を覗き込む。今は先導の小柄が、魔石のカンテラを掲げていた。
――その光がぼんやりと届く端に、男が一人。
すっかり暮れて夜闇が蟠りだした地面に、突っ伏していた。
ここは、本来なら袋小路、ニカナグたちのように壁を越えるような近道でもしなければ、恐らく誰も通らない場所である。
倒れているのは、耳長族。頭には、黒い布の眼帯。
……血まみれ、だった。
「すが、め、センパイ……」
「えっ、えっ?! なんで、こんなところにこの人が……?!」
認識した瞬間、ニカナグの心臓はいろんな意味で縮み上がる。彼は、ハナトに〈声封じ〉の呪いをかけた、恐らくは張本人だ。
しかし、やはり駆け寄らずにはいられない。怪我をして昏倒しているなら、人として手当てしなければならない。
ニカナグは小柄の脇をすり抜け、慌てて様子を確認する。
息は、ちゃんとしていた。しかし、脇腹と胸に刺し傷が一ヶ所、二ヶ所。
喧嘩でもしたのだろうか? この男なら方々で人の恨みを買っていてもおかしくないように思える。
「か、カナイナさま……、センパイ、息ありますか?」
「ある、けど、このままほっとくと危ないと思う。死んでしまうかもしれない」
答えながらも小柄の声が、驚きと心配以上の何かを含んで揺れているのを、ニカナグは耳に覚える。
しかし、今は彼のそんな感情の揺らぎを気にする余裕はない。正直この男は死ぬほど苦手だが、だからといって死なせるわけにはいかない。
小柄の差し出してくれる灯りの下でもう少し調べる。
幸いなことにどちらの傷も、どうやら致命傷ではない。
だが、このまま放置してしまえばやはり血を流しすぎるだろう。
後頭部からも血を流している。触ると腫れていた。どうやら、気絶の原因はそちらのように思える。
「小柄くん、ちょっと……、大変だけど邸まで運ぶの手伝っ……」
くるりと振り返る。
するとそこには、両刃の削りナイフを握りしめた小柄が、なぜか悲壮な顔をして立ちすくんでいた。刃渡りは手のひらの高さほど。
護身用にも使われる、鍔もない細身の剣だ。
「えっ」
「眇目、センパイ……」
彼の喉仏が、ごくりと唾を飲んで下がる。その深刻な視線はニカナグを見ていない。
そのままふらふらと幽鬼のように歩み寄ってきて、ニカナグの横、眇目の頭のそばにしゃがむ。ぱちゃりと湿った音がして、衣が血に染まるのもお構いなしだった。
その刃が、震えながら眇目の直上に翳されたとき、ニカナグはようやく彼が何をしようとしているかを悟る。
「大丈夫ッスよ、眇目センパイ……。今、楽に……」
「――――ひぇ?! えっ、ちょっ、えっ、ちょちょちょっと待って、なんでそんな穏やかな顔でなんで?! 殺すのはダメだよ?!?!」
しかしその真意は全然汲み取れない。
慌てて両手首を掴み、止めた。すると小柄は震える声と手で、逆にその制止こそが理解できないような顔をして彼女を見上げるのだ。
その瞳には、憎悪や殺意などかけらも見当たらない。しごく純粋に、不思議そうに問われる。
「なん、でカナイナさまは止めるんスか……?」
「えっ、だから……、…………。……なんで?」
「だって自分の故郷では、瀕死の人には情けをかけて留めを刺してあげてたんス。だから、今度は、自分が眇目センパイを……」
「わ、わー?! そういう……?!」
そういえば道中、群れの他の狗はみんな生まれつきの奴隷だけど自分はそうじゃない、みたいな話を彼がしてくれたのは聞いていた。小柄は父母や他の大人や子供たちと、山野を回って獣を狩り、山の恵みを糧にする暮らしをしていたらしい。
ずいぶん野性的で興味深い……、が、さすがにその、ここにはない余所の文化をこの場に引きずってくるのは今はナシである。
「じ、事情も気持ちもわかるけどコレ、ちゃんと手当てすれば助けられるからね?! お願いだから待って待って?!」
「えっ、……えっ、助かるん、スか! この状態から――」
見るからに衝撃を受けた表情をされた。
「――そんな、や、山にも"群れ"にも、そんなことできる人も、してくれる人も一人もいなかったんスよ……?」
「うんうん、助かる! 私の治癒魔法じゃ全部の傷も塞いであげれないけど、とりあえず最低限だけして、あとはうちに運べばうちの叔母さんとあの家の専属のお医者さまがなんとかしてくれるから!」
言いながら、より傷の深そうな脇腹の前に手をかざし、やや煩雑な詠唱も省いて、自分も死なない程度にありったけの魔力を注ぐ。
使用する魔力を束ねるために使われる〈提げ石〉すら必要としないほどの、同族には鼻で笑われる弱い力。
それでも夜に沈んだ路地裏へ、幽かに青い光は広がり、濡れて血に照る石畳と三人を照らす。
やはり必死になっても、ニカナグの魔力では治りかけの縫い傷くらいの脆さでしか塞げない。ちょっと動いたらすぐ弾けるだろう。
それでもどうにか、大きな傷の血だけは止められた。
そうしてそれを目の当たりにする間に、小柄の猫目はだんだん見開かれ、未知の生物に出会ったかのようにニカナグと、伏した眇目の傷とを交互に身やり続けるのだ。
「じゃ、じゃあ……、どうかおねがい、するッス……。自分、ゴミみたいなどうしようもない狗ッスけど。……眇目センパイのこと、助けてください……!」
「そん、なの、言われなくてもだよ。
誰しも命は一個しかないんだから、救えるものは救うんだ! そこに貴賤とか、言い出したらダメだよ。それは、キミも、この人もおなじさ」
魔力切れの虚脱感を感じるが、別に一晩寝れば治る程度のものなので立ち上がる。
さあ、大変だけど一緒に運ぼう、と促すと、彼の視線は、今度は『聖人を目にした』どころの話ではなくなっていた。
「い、一緒に運んでくれる、んスか……?」
まるで、女神の降臨にでも立ち会ったかのようなキラキラしい表情を、全力でニカナグに向けてくる。
「カナイナ、さま……。いや! 姐さん……! 自分、この恩は忘れないッス! 一生付いてくッス……!」
「え……、ええ……?」
しかしこれにはニカナグだって困惑だ。何も特別なことは言ってないのに……。
そうして多分これが人生初、ニカナグに、助手ならぬ舎弟が爆誕した瞬間なのであった。




