第19話 天才の発見より、三か月早い
所長室の机に、書類は広げられていなかった。
「推薦人について、どこまで追えるかを確認したいです」
クラウスが切り出すと、オスカーはペンを置いた。
「言ってみろ」
「推薦が通った経路。同じ人物が出した他の推薦。そして、現在の所在。この三つです」
「どれも、今の依頼の審査範囲には入っていない」
「ヴァルターの推薦者と僕の推薦者が同じだと確認したのは、依頼の中でした。ですが、その先は」
「お前の私的な疑念だ」
オスカーは言い切った。
「疑念が当たっているかどうかは関係ない。任用審査の名目で照会できるのは、功績、懲戒、褒賞の根拠までだ。知りたいからという理由で、無関係な人事記録は開けない。やれば、疑われるのは先に調査所になる」
「推薦者欄が審査の対象になる案件であれば」
「そのときは、その範囲で調べられる。こちらから探しに行くな。私に聞かれても、出せる答えがない。出せる手続きが、まだないだけだ」
クラウスは少し間を置いた。
「分かりました。留保します。放棄ではありません」
「それでいい」
オスカーは机の端から、封のある書状を引き寄せた。
「来ている案件がある。魔術院からだ。次期院長候補、ハインリヒ・ベルナーの、重要職任用前の経歴審査。照会できるのは任用資料に挙がった功績と、申立書が具体的に示す記録の範囲まで。研究室の中へ入る権限はない。魔術院が許す場所だけだ」
「受けます」
推薦者欄の一行は、頭の隅に置いたまま、書状へ手を伸ばした。
*
資料室の卓に、任用資料が開かれた。ミロが功績欄を指でなぞる。
「最大の功績は《魔力逆相安定法》。世間では、《ベルナー式逆相安定法》と呼ばれています」
「中身は」
「高出力の魔術は、限界の近くで崩れて暴走します。崩れる直前に、主の術式と逆向きの位相を短く重ねて、抑え込む。……綱が切れる寸前に、反対側から軽く引く、と説明されたことがあります。正確かどうかは自信がありません」
功績欄には、ベルナー個人の発見と書かれていた。その下に、公式の発見日。クラウスは日付を、紙の端に書き写した。
資料の最後の頁に、別の紙が綴じられていた。申立書だった。
申立人はエマ・クロイツ。元弟子。文面は硬く、しかし行が詰まっている。
『私たちの成果が、ベルナー氏一人の名で発表されました。成果は、研究室の外の記録に残っています』
ミロが顔を上げた。
「強い書き方ですね。それに、『私たち』と」
「複数形だ。誰を指すのかは、書面にない」
「ベルナー氏の側は、個人の発見と書いています。どちらかが間違っているんでしょうか」
「どちらも、まだ主張だ」
クラウスは申立書の末尾を読んだ。具体的に挙げられた記録は、一つだけだった。
『発見より前の、工房の修理票を見てください』
「研究室の記録でも、申立人の手控えでもない」
「ええ。発表も、任用資料も、研究室が整えたものです。申立書は、感情の強さで読まれるでしょう。ベルナー氏の肩書は、それだけで資料を重く見せます。どちらにも寄らず、書き手が関係しない記録で確かめられるのは、この一点です」
「工房の記録を、どう引きます」
「ミロ、探してくれ」
*
ミロは最初、申立書の言葉で目録を引いた。『逆相』『実験票』『実験記録』。出てくるのは、魔術院の研究室が保管する綴りばかりだった。
「だめです。どれも、研究室が自分の成果を整理した側の記録です。見方が入っています」
ミロは手を止め、申立書を読み直した。
「修理票、でしたよね。研究の記録じゃない。装置が壊れたり狂ったりしたときに、直すために残る紙です。直す人間は、誰の功績かには興味がない。何を、どこまで、いつ直したかを残す。研究室と、持ち主が違う」
「検索の軸を変えるのか」
「『逆相』ではなく、『破損』『調整』『固定部』『修理』で、発見日の前後を。魔術院の保全は工房の管理で、研究室の綴りとは別に保管されているはずです」
目録の頁をめくる音が、しばらく続いた。
「ありました。工房保全の台帳。照会先は、工房の保全担当です」
クラウスは照会書の文案に目を通した。範囲は、申立書が挙げた修理票一件。原本の閲覧と、写しの交付。研究室の綴りには触れない。オスカーが署名し、書状は魔術院へ出た。
*
回答は、見込みより早く来た。
工房の窓口は、油と金属の匂いがした。保全担当が持ってきた原本は、手のひらより少し大きい、厚手の紙だった。隅が黒く焦げている。
クラウスは、一項目ずつ読んだ。
「実験番号。控えと同じ番号が、ここに」
「僕の写しと突き合わせます。……一致しています」
「日付。ミロ」
「資料の公式発見日と、数えて、約三か月前です」
「修理または調整の対象」
「支持環の固定部。『ゆるみ、振動あり。再調整』とあります」
「備考」
保全担当が、指で票の中ほどを示した。
「『逆相配置にて試験』。その行です。保全の書式で、試験の条件を残す欄ですから」
「担当欄」
二つの名が、並んでいた。エマ・クロイツ。レオン・ハルト。
ミロが小さく息を吐いた。クラウスは、その音に答えず、票の端を押さえた。
「ベルナーの名は、ない」
「ええ。ですが」
ミロは先に言った。
「設備の担当欄に、研究室の責任者が載るとは限りません。試験の課題を決めた人や、後で理論にまとめた人は、この紙には出てこない。名前がないことは、関わっていない証拠にはなりません」
「そうだ。逆も同じだ。担当欄にあるのは、設備を使って試験をした者の名だ。誰が逆相を最初に思いついたかは、この紙は言わない」
保全担当は黙って聞いていた。クラウスは、照会書の控えに、確認した範囲を書き並べた。
この票で言えること。公式発見日より前に、この実験番号で逆相配置を用いた試験が行われた。設備側の記録では、エマ・クロイツとレオン・ハルトが担当者として記録されている。
この票で言えないこと。誰が逆相を着想したか。誰が試験を指示したか。理論を誰が完成させたか。ベルナーがこの試験を知っていたか。エマの申立てが正しいか。
*
窓口を出ると、日が低くなっていた。写しを封筒に収めながら、ミロが言った。
「公式な発見日より前に、同じ名前の実験が回っていた。これだけでも、任用資料の書き方とは噛み合いません」
「噛み合わないのは、資料の『発見』という語と、この日付だ。資料が嘘だとまだ言えない。発見という語が、何を指しているのか。試験の成功か、理論の公表か。資料はそこを書いていない」
クラウスは封筒から、資料の発見日を書き写した紙と、修理票の写しを出した。夕方の光の下で、二枚を並べる。
「発見した、と書かれた日より、三か月早い」
一拍、置いた。
「三か月早い実験が記録されている。今言えるのは、そこまでだ」
ミロが修理票の隅を見た。焦げた跡が、写しでも黒く残っている。
「この焦げ。それに、支持環の固定部の修理。この実験番号の装置と試験片が、まだ工房に残っているかもしれません。紙だけでは、何があったのかは分かりません」
「残っていれば、見る。誰が考えたかではなく、その日、あの場所で、何が起きたかを」
クラウスは写しを封筒へ戻した。
実験番号の一行を、もう一度だけ見た。そこに記された試験が、本当に逆相の最初の一回なのか。それとも、すでに何度目かだったのか。紙は、答えていなかった。
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次回は明日19:10に更新予定です。
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