第二十五話:過酷な修行
夜明け前。空がまだ黒いままの時間に、ラザンがノアの肩を軽く叩いた。
「起きろ。体が動くうちに始める。」
森の空気は刺すように冷たい。息を吸うだけで胸が痛い。
ノアは走り出す。湿った土、滑る苔、飛び出した根。
足が取られるたび膝が悲鳴を上げる。
速度が落ちた瞬間、背後から声が飛ぶ。
「呼吸を乱すな。脚を動かせ。」
その言葉に押されるように、ノアはまた速度を上げた。
戻る頃には太ももが痙攣していたが、休む間はない。
そのまま岩場へ向かい、踏み込み三百回。
二百回を越えたあたりで膝が言うことを聞かなくなる。
「止まるな。限界はまだ先だ。」
ノアは震える脚を無理やり持ち上げ、三百回目を踏み込む。
息が荒れ、胸が焼ける。だが次の訓練が始まる。
片腕腕立て。弱い側二百回。
肩が軋み、手首が痛む。腕が沈みかけた瞬間、ラザンが言う。
「その程度の覚悟なのか?」
その一言で、ノアはもう一度腕を伸ばした。
続いて魔力の流し方の矯正。
指先から足先まで均一に魔力を流す。
少しでも乱れれば、ラザンが短く言う。
「流れが雑だ。もう一度。」
二時間のうち成功したのは数分だけ。
魔力の流れだけが世界のすべてになる。
体が温まったところで、川へ向かう。
水は氷のように冷たい。ノアは腰まで浸かる。
肌が刺されるように痛い。呼吸が乱れる。
「耐えろ。体はまだ折れていない。」
十五分で足の感覚がなくなる。
川から上がると、すぐに反応速度訓練が始まる。
枝を掴む。石を避ける。水面の跳ね返りを指で弾く。
失敗したら最初から。
「見えていない。目じゃなく、気配を追え。」
ノアの指先は赤く腫れた。
最後に岩場で姿勢固定九十分。
風が吹けば揺れ、揺れればやり直し。
脚が震え、腹筋が焼け、背中が軋む。
最後の十分はほぼ気絶寸前だった。
「揺れた分だけ弱い。戻せ。」
小屋に戻ると、ノアはそのまま倒れ込む。
ラザンが魔力を流し込み、筋肉を縫うように修復していく。
「逃げるな。治す痛みだ。」
肩、背中、腹筋、ふくらはぎ。
壊れた場所をひとつずつ修復していく。
完全ではない。ただ、明日また壊せる程度には戻る。
「寝ろ。明日も壊す。」
外ではラザンが火を見ている。
治療の疲れも魔力の消耗も見せない。
ただ、ノアが明日も立てるかどうかを見ている。
そして翌朝。
「立てるなら十分だ。行くぞ。」
ノアは体を起こす。筋肉は治っている。
だからまた壊せる。壊して、治して、また壊す。
そんな日々が淡々と続いていく。
ーー三年が過ぎた。
朝の森は静かで、冷たい空気が肌に馴染む。
二年を過ぎた頃から、修行は全部一人でやるようになった。
治療も自分で魔力を流して直す。
ラザンに頼らなくても最低限は動ける。
走り込み、踏み込み、魔力操作。
淡々と積み重ねるだけの日々。
それが当たり前になっていた。
そのはずだった。
ふと、空気が揺れた。
森の奥から重い魔力が押し寄せてくる。
濃い。深い。圧が違う。
ウォーロードとは質が違う。
森の魔力が吸われていくような静かな“空白”が生まれる。
鳥の声が消え、風も止まり、森全体が息を潜める。
魔力の波がゆっくり近づいてくる。
空気が沈む。
世界が静かになる。
黒い霧が渦を巻き、地面を焦がしながら集まっていく。
霧の中心に無数の影が蠢く。羽音のようなざわりが森を満たす。
影が一つにまとまり、ゆっくりと立ち上がった。
ベルゼブブ。
災厄そのもの。
群体を統べる王。
輪郭は揺れ、背後の影は羽のように広がり、
地面の影は生き物のように蠢く。
森の魔力が吸われ、空気が薄くなる。
呼吸が重くなる。
ベルゼブブが顔を上げる。
闇の底に光がひとつ灯ったような目。
ゆっくりと近づき、低く言う。
「……混沌の魔力……勇者か、魔王か……どちらにせよ貴様を殺す」
森の空気がさらに沈んだ。




