第6章 交差する視線と沈黙の温度
翌朝。
目が覚めた瞬間、昨日のやり取りが頭の中で再生された。
アストレア・ノクス。
天城アリス。
そして、あの一言。
――あの子、君のこと知ってるよ。
ベッドの上で、しばらく天井を見つめる。
逃げ道はない。
考えないふりをしても、状況は変わらない。
むしろ、無視すればするほど不自然になる。
「……面倒なことになったな」
小さく呟いて、体を起こす。
選択肢は限られている。
確かめるか。
距離を取るか。
どちらにしても、何もしないという選択はもう残されていない。
*
教室に入ると、いつもの空気がそこにあった。
笑い声。
雑談。
机のざわめき。
何も変わっていない。
変わったのは、俺の認識だけだ。
「おはよ、神谷」
水瀬陽菜が手を振る。
その動作が、妙に現実的に見える。
「おはよう」
「今日はちゃんと起きてる顔してるね」
「昨日よりマシなだけだ」
「それでも進歩じゃん」
軽く笑う。
そのやり取りの間も、意識の一部は後ろへ向いていた。
窓際の席。
白石澪。
すでに席について、本を開いている。
昨日と同じ姿勢。
同じ静けさ。
――本当に、同じか。
視線を向けると、ちょうど白石がページをめくるところだった。
指先の動きが、ほんの少しだけ止まる。
気づいている。
こちらの視線に。
けれど顔は上げない。
そのまま、何事もなかったかのようにページを進める。
「ねえ」
水瀬がひそひそ声で話しかけてくる。
「今日の放課後、ちょっと残れる?」
「なんでだ」
「グループワークの続き。早めに終わらせときたいし」
合理的な理由だ。
「……いいけど」
「よし決まり」
満足そうに頷く。
「白石さんにも言っとくね」
そう言って、また軽い足取りで席を立つ。
ためらいがない。
距離を作らない人間の強さだ。
その背中をぼんやりと見送りながら、俺は小さく息を吐いた。
――逃げられないな。
むしろ好都合かもしれない。
直接、観察できる。
反応を見られる。
確かめるには十分な状況だ。
*
放課後。
教室の人が減り、空気が少しだけ落ち着く。
窓の外は、夕方の光が柔らかく差し込んでいた。
「じゃあ、昨日の続きやろっか」
水瀬がノートを広げる。
俺と白石も席を寄せる。
三人の距離が、昼よりも少し近い。
「SNSの依存について、もう少し掘り下げたいんだけど」
水瀬が話を振る。
「白石さん、調べたやつある?」
「……少しだけ」
スマホを取り出して、画面を見せる。
簡潔にまとめられたメモ。
無駄がない。
「すご、ちゃんとやってるじゃん」
水瀬が感心する。
白石は小さく首を振る。
「普通」
短い言葉。
けれど、その内容は“普通”より一段深い。
「依存ってさ」
水瀬がペンを回しながら続ける。
「どこからがアウトなんだろうね」
「難しいな」
俺が答える。
「本人が楽しいならいいって意見もあるし」
「でも、それで生活崩れたらアウトでしょ?」
「基準が曖昧だ」
そこまで言って、白石の方を見る。
「……どう思う」
自分から話を振ったことに、ほんの少しだけ違和感を覚える。
白石は一瞬だけ視線をこちらに向けた。
ほんのわずかに、驚いたような表情。
すぐに落ち着きを取り戻す。
「……逃げ場になってるなら、いいと思う」
静かな声。
続ける。
「でも、それしかなくなると、危ない」
言葉が途切れる。
それ以上は言わない。
けれど。
その一文だけで、十分だった。
経験が滲む言い方。
ただの一般論じゃない。
――知っている人間の言葉だ。
「……なるほどな」
俺は頷く。
それ以上は踏み込まない。
踏み込めば、何かが崩れる気がした。
「いいねそれ」
水瀬が明るくまとめる。
「“逃げ場としてのSNS”と“依存の危険性”って感じで分けられるじゃん」
「そうだな」
自然に会話が続く。
けれど、意識は別のところにあった。
白石の言葉。
その選び方。
そして、今の視線。
――やっぱり、知っている。
俺のことを。
アリスの言葉が頭の中で反響する。
『あの子、君のこと知ってるよ』
なら。
どうする。
ここで、踏み込むか。
それとも。
「神谷?」
水瀬に呼ばれる。
「どうしたの? またぼーっとしてる」
「……いや」
軽く首を振る。
「ちょっと考え事してただけだ」
「ちゃんと戻ってきてよー」
笑いながら言う。
その軽さに、ほんの少しだけ救われる。
この空気があるから、まだ保てている。
けれど。
ずっとこのままではいられない。
ふと。
白石がこちらを見ていた。
今度は、逸らさない。
まっすぐに、静かに。
その視線は、どこか問いかけるようだった。
――気づいてる?
そんな風に。
言葉にはならない圧力。
俺は、わずかに息を吸う。
そして。
「……昨日の配信」
口を開いた。
水瀬がきょとんとする。
「え?」
白石の瞳が、ほんのわずかに揺れた。
「ルミナ・レイって知ってるか」
教室の空気が、静かに変わる。
水瀬は「あー」と軽く頷いた。
「名前は聞いたことあるかも。有名なんでしょ?」
「まあな」
視線は白石に向けたまま。
「……見たことある?」
間。
ほんの一秒にも満たない沈黙。
けれど、その一瞬がやけに長く感じる。
白石はゆっくりと瞬きをした。
それから。
「……ない」
短く答える。
声は、いつも通り。
抑えられていて、静かで。
――完璧だった。
嘘だと分かるくらいには。
俺は小さく頷いた。
「そうか」
それ以上は何も言わない。
言えない。
ここで踏み込めば、全部が壊れる。
まだ、その時じゃない。
白石は再び視線を落とす。
けれど、その指先はわずかに強くスマホを握っていた。
見えないはずの境界線が。
今、確かに存在している。
その線の上で、互いに立ち止まっている。
踏み越えるか。
それとも引き返すか。
選択の猶予は、そう長くない。




