第3章 見られている側の距離
心臓の鼓動が、ほんの少しだけ早くなる。
落ち着け、と自分に言い聞かせる。
今の一言に、特別な意味なんてない。
配信者なら、誰でも一度は思うことだ。
コメントの癖。
言葉の選び方。
間の取り方。
そこに“向こう側”の気配を感じることは、珍しくない。
――ただの一般論だ。
そう結論づけて、俺はヘッドホンをかけ直した。
「たとえばさ」
ルミナは軽く指を立てる仕草をする。
「言葉の切り方とか、変に丁寧すぎたりとか。あと、空気読むのがうまい人」
コメント欄が盛り上がる。
“それ俺?”、“こわw”、“プロの視点だ”。
いつものノリ。
軽く笑って流れる空気。
なのに。
俺の中だけ、引っかかりが消えない。
「まあ、いい意味でだよ? 別に探ってるわけじゃないからね」
くすっと笑う。
その声のトーンが、ほんのわずかに落ち着いた気がした。
……考えすぎか。
俺はキーボードに手を置いたまま、結局何も打たなかった。
今日は、見るだけでいい。
そう決めると、不思議と少しだけ楽になる。
*
翌日。
朝の教室は、昨日と同じようでいて、どこか違って見えた。
同じ机。
同じ人間。
同じ雑音。
なのに、ひとつだけ意識が引っかかる。
窓際の席。
白石澪。
今日も静かに本を開いている。
ページをめくる指の動きは、無駄がなくて整っている。
昨日感じた違和感。
それを確かめたいような、確かめたくないような。
そんな曖昧な感情のまま、俺は席に着いた。
「おはよ、神谷」
すぐに水瀬陽菜が顔を出す。
「今日も死にかけの目してるね」
「第一声それか」
「だってほんとだし」
笑いながら、俺の机に軽く拳を置く。
「昨日も遅かった?」
「まあな」
「ほんと夜型だよね。健康に悪いよ?」
「お前は保健の先生か」
「違うけど心配くらいするでしょ普通」
そう言って、少しだけ真面目な顔になる。
こういうところが、こいつの厄介なところだ。
軽いノリのまま、時々こうして真っ直ぐな言葉を差し込んでくる。
「……別に問題ない」
「ならいいけどさ」
あっさり引く。
踏み込みすぎない。
やっぱり距離感の取り方が上手い。
「そういえばさ」
水瀬がふと思い出したように声を弾ませる。
「今日、グループワークあるって知ってる?」
「知らない」
「マジ? 昨日言ってたじゃん」
「聞いてなかった」
「聞けよ」
軽く肩を叩かれる。
「三人一組らしいんだけどさ、どうする?」
「どうするって?」
「組む相手」
「別に誰でもいいだろ」
「じゃあ私と組む?」
即答だった。
少しだけ間を置いてから、俺は頷く。
「いいけど」
「やった」
満足そうに笑う。
その笑顔の奥に、ほんの少しだけ安心したような色が見えた気がした。
「あと一人どうしよっか」
水瀬が教室を見回す。
自然と、その視線は後ろへ向かった。
窓際。
白石澪。
「白石さん、どう?」
さらっと名前が出る。
少しだけ驚いた。
「いいのか?」
「いいでしょ別に。同じクラスだし」
迷いがない。
こういう時、水瀬は躊躇しない。
距離を詰めることに対して、妙なブレーキがない。
「ちょっと聞いてくるね」
そう言って、水瀬はすぐに席を立った。
止める間もない。
軽い足取りで、白石の席へ向かう。
「白石さん」
声をかける。
白石がゆっくりと顔を上げた。
水瀬と目が合う。
何か短いやり取りが交わされる。
声はここまで届かない。
ただ、白石の表情がほんのわずかに揺れたのが分かった。
驚きか、戸惑いか。
それでも数秒後、小さく頷く。
水瀬が振り返って、親指を立てた。
「オッケーだって」
戻ってきて、嬉しそうに言う。
「これで三人決定ね」
あっけないほど簡単に決まる。
逃げ場はない。
俺は軽く息を吐いた。
「よろしくね、白石さん」
水瀬が明るく言う。
「……よろしく」
白石の声は、小さくて、抑えられていた。
けれど。
やっぱり、どこかで聞いた響きがある。
昨日の配信。
あの一瞬の掠れ。
頭の中で、二つの音が重なる。
似ているだけだ。
それ以上でも、それ以下でもない。
そう思おうとするほど、意識がそちらに引き寄せられる。
「神谷もなんか言いなよ」
水瀬に肘で小突かれる。
「ああ……よろしく」
短く返す。
白石がこちらを見る。
一瞬だけ、目が合う。
その瞳は、静かで、深くて――
どこかで、見た気がした。
いや。
違う。
見たことがあるんじゃない。
――“見られていた”気がした。
そんな、奇妙な感覚。
その瞬間。
白石がほんのわずかに視線を逸らした。
逃げるようにではなく、計算したような自然さで。
そして、何事もなかったかのように教科書へと目を落とす。
空気が、わずかに変わる。
気のせいかもしれない。
けれど確かに、何かが噛み合い始めている。
まだ形にはならない、小さな違和感。
それがゆっくりと、確かな輪郭を持ち始めていた。




