第4話 森の中(2)
深い緑と強い日差しの記憶から、落ち葉のかさりと鳴る足元に意識が戻ってきて、サクラは、自分がいる場所が一瞬わからなくなった。
「サ、ク、ラ! こっちだ」
レイの声が後ろから聞こえて、サクラは振り返った。
気づけば二人よりも二、三歩先に歩いていたらしい。レイが呆れたような顔をしながら、群れへと続く細い獣道へと足を踏み入れるところだった。
獣道は砂利道の脇に自然とできたもので、草がほんの少し分かれているだけだった。サクラには時々わからなくなるその跡を、レイはいつも迷わず見つける。
「ごめん、いまいく」
サクラがそう言うと、レイはチッと舌打ちをついて獣道へと入っていく。サクラは慌てて二人の後を追った。
獣道に入れば、いつもの深い森の雰囲気に戻った。
柔らかい土を踏みしめれば、深く積もった落ち葉の感覚がして、サクラはほっと溜息をついた。慣れない砂利道にどこか緊張していたのだろう。
音もしない。尖った石が足裏に食い込むこともない。
湿った葉の匂いや、木々の隙間を抜ける風を感じながら、サクラは息を合わせるように森へと溶け込む。五感や身体をすべて使って、他の獣たちの邪魔にならないように、警戒されないように、襲われたりしないように、サクラは森の中に自分を馴染ませる。
頭上を深い木々の葉が覆い、足元は獣が歩いて踏み固められた草地。サクラは、ほかの獣と同じような歩を進め、枝や岩を避けて歩いた。草が高く生い茂っても、レイは木鉈を振るわない。身のよけ方をよく知っているからだ。
ただ、ロダだけはそうはいかなくて、身に着けている毛皮に枝を引っかけて、小さく「あっ」と声を漏らした。サクラは手を伸ばして、後ろからその引っ掛かりを解く。
「だから気ぃつけろってロダ兄」
「わかった気を付けるよ。ずっと砂利道ならいいんだけどね。ありがとうサクラ」
立ち止まったレイが横目でロダに注意をして、困ったようにロダがはにかむ。
振り向いたロダがサクラににこっと笑いかけた。サクラも「ううん」と小さく笑い返す。
「置いてくからなっ」と、レイがそう言いながらも、ロダの歩調に合わせて、レイの歩みが少しゆっくりになった。
ロダはいつも何かを気にしながら歩くから、よく体をどこかしらに引っかける。けれど今日は、いつも以上にぼんやりとして見えた。森を見ながら、さらにその奥の別の何かを見ているようだった。
あのレイですら、心ここにあらずといった感じだ。
きっと、あの家で見つけたいろんなものが、まだ二人の中にも残っているのだろう。
サクラ自身も、そうだった。
行きとは違い、帰りは妙に静かになった。
落ち葉を踏むかさりとした音が静かに続く。
高い枝のどこかで、小さな獣が木の実を齧る気配がした。
秋に入り、実りの多くなった森の音は、喜びと焦りに満ちているようだ。どの生き物もせわしなくて、冬に向けていかに肥えようかと動き始めている。
風が吹き、一枚、早めに色づいた葉がひらひらと落ちていった。
ふと、レイが足を止めて、風上へと視線を向けた。
「……あっち、“キバ”の匂いがするな」
サクラもそちらへ鼻を向けて、短く鼻から息を吸う。確かに、それっぽい匂いがかすかにした。
「“キバ”って猪のことだよね?」
ロダが振り返ってサクラにそう問うので、サクラはうなずいた。
「そう、大きな体で体当たりしてくるから、結構危ないんだ」
よく匂いでわかるなあ、と首を傾げながらロダも匂いを嗅いでいるが、首を横に振って諦めていた。ロダには、まだ匂いの嗅ぎ方が上手くできないようだった。
「いまの時期の“キバ”はエサいっぱい食ってるから、こっちから近づかなきゃ襲わねえから大丈夫だ」
レイはそう言って、警戒を緩めないでまた歩き始めた。
ただ、危険は少ないようで、歩みはどことなく軽かった。
「秋だもんね、……また冬が来るね」
ロダがそう呟く。
サクラは頭上を見上げた。色づき始めた葉の黄色や赤。まだまだ緑の葉も多いが、確実に秋は深まっていく。こんなところは、元の世界と同じなのだ。あの家の続きのように、木々を見上げて、葉の染まるさまを見ていると、自分がいる場所がここでは無いような、現実感のないおぼつかなさを感じた。
「んだな。俺たちも早く木の実なり肉なり集めねえと」
森の獣たちと同じように、レイがどことなくそわそわしながらそう言う。連日、保存が利くものを集め続けている。今日こうしてあの森の廃屋まで行っていたなんて大人たちに知られれば大目玉を食らうだろう。
「また、燻製器つかう?」
「あれすげえよな! 肉を貯めて冬を越せるなんて、考えたことなかった」
「塩がもっとあれば、いろいろできるんだけどね」
「塩か―、海まで行くの、遠いんだよな」
レイが頭を抱える。
他にはないか、と、レイがさらに食いつくのに、ロダは少し困ったように笑いながら、今度は魚を長く保たせる方法を話し始めた。
レイがロダの話を目を輝かせながら聞いている。
サクラはそんな二人の声を後ろで聞きながら、ただ足を動かした。
ロダの話は、いつの間にか塩の作り方から、魚を長く保存する方法に変わっていった。レイが「それすげえな」と感心した声を上げるたび、ロダが少しだけ嬉しそうに笑う。
サクラは口を挟まない。二人の空気を邪魔したくなかったからだ。
いつものように、後ろで口を閉じたまま、ただ足を動かす。
サクラはふと、木々の隙間から、妙に黒い幹がちらりと見えた気がした。
――あの木は、……何の木だろう。
視界の端に見えた木の影と、二人の姿が、重なる。
なんとなく、こんな光景を見たような気がした。
勝手に湧き上がるもやもやとしたものを、サクラは記憶の中にある感覚へと重ねていく。
――そう、あれは、……おとうさん、おかあさんで。
おかあさんは、何かを押していて、その何かの中で、妹がきゃっきゃと声を上げていて。
わたしは、そのうしろを歩いていて。
たくさんの木がならんでいて。
――そう、たくさんのひらひらしたものが空からふっていて。
とてもきれいで。
わたしはそれになんども手をのばして。
「……あ」
木々の隙間から見えた、黒い幹に、サクラは小さく声を上げて立ち止まった。
「ん? どうしたサクラ?」
すぐにレイがサクラの様子に気が付いて、足を止めた。
サクラはその幹から目が離せなくて、そのまま、獣道を外れ、木々の間をくぐっていった。
二人が呼びかけているような気がしたが、サクラは真っ直ぐにその黒い幹に歩いていった。
見慣れた木々の間に見えたそれは、ごつごつとして、他よりも黒くて、どっしりと太い。サクラが向かう先は開けていて、空の合間が見えた。低木が見える中、崩れた何かの建物の残骸。その横に立つ大きな木。
「サクラどうしたんだよ」
「なにかあった?」
追いかけてきた二人がサクラの横に付いた。
サクラは木から目が離せないまま、その木に指をさした。
「あれ、……なんか、見覚えがある気がして」
そう答えながら、サクラはゆっくりと木に近づいた。
黒く、まるで濡れたような光沢のある幹にそっと手を触れる。
ざらりとして、ごつごつとした感触。
その瞬間、胸の奥がぎゅうっと痛くなった。
――なつかしい。
そんな思いが沸き立つ。
この木を私は知っている。
「――ああ、……桜の木だね」
いつの間にか、横に立っていたロダがそう呟いた。
その言葉を聞いた瞬間、サクラの心にぶわりと感情が沸き立った。
目の前にやわらかい色の花びらが見えた気がした。
『あなたのうまれた日に、きれいに咲いていたの』
そう、たしかに言われた。
やさしい声。
「サクラの名前だね。この世界にも、桜の木は結構あるんだよ」
ロダがサクラのほうを見ながらそう言う。
さくら。桜。
薄桃色の花びらが風いっぱいに舞っていた。そんな光景。
大事な人と一緒に、それを見上げていた気がする。
胸がいっぱいになって、サクラは喉元に手をあてた。
目元がじんわりと濡れそうで、サクラはごまかすように軽く笑った。
「そう、私の名前。……びっくりした、こっちにも桜の木があるんだね」
ロダがやわらかく微笑んだ。穏やかな表情なのに、どこか悲しそうで、ごまかすために言ったはずなのに、ロダの表情に、サクラはさらに戸惑った。
「……いつか、桜の花を見に行こうか? ここでも、……どこでも」
「そうだね、ロダとレイと、一緒に見に来れたらうれしいな。……ロダの名前は? どんな意味があるか覚えてる?」
記憶の中のおとうさん、おかあさんの後姿を思い出しながらサクラがそう言うと、一瞬、ロダの目から感情が消えた気がした。
「僕のはただのハンドルネームだから。……本当の名前は、そんなに好きじゃなかったし」
「…………そっか」
はんどるねーむ? がよくわからなかったが、自分の名前が好きじゃない。そう言うロダの様子が、どこか冷たく、固く見えて、サクラはそれ以上何も言えなかった。
ロダがにこりと笑いながら、後ろのレイを振り返った。
「レイは? 名前、お姉さんと似ているよね? 両親はなんて言ってつけてくれたの? 」
サクラも振り返ると、ムスッとしながら頭の後ろで手を組んでいるレイが見えた。
サクラと目が合うと、レイはふいっと視線をそらしてしまった。
どこか、いつもよりも不機嫌そうに見えた。
実際に不機嫌になっていたようで、足元の石を蹴りながら、ぶっきらぼうにレイがロダの問いに答える。
「覚えてねえよっ、どっちももういねえし。いいから早く帰ろうぜ。日が暮れちまう!」
ロダが「あっ」と申し訳なさそうな顔をするのを無視して、レイがぱっと踵を返し元の道へ戻る。時間が差し迫っていたことに気が付いて、サクラたちも慌てて引き返した。
レイの後姿にサクラはためらいながら声を掛けた。
「ごめんなさい」
「だからっ、謝んなって! お前はなんでそんなに卑屈になんだよやめろっ」
「ご、……めん」
顔だけ振り向いてレイがそう言い、サクラが結局、謝る言葉をつぶやくと、いつものごとく鋭い舌打ちを残してまた歩き始めた。足早に歩き始めるのでサクラも小走りになって追いかける。
そのサクラの横をロダが走って行った。
レイの横に並ぶと、ロダがその顔を覗き込むようにして、ふわりと笑った。「ごめんなレイ」とロダが言う。レイが「ロダ兄まで謝んなって!」と鬱陶しそうに腕を振ってロダを避けた。
そのまま、二人でじゃれあいながら歩いていく。
サクラはその二人を追いかけながら、一瞬だけ桜の木を振り返った。
崩れた石垣に寄り添うように立っている桜の木。
生い茂った葉が、ほんのりと紅く色づき始めている。一枚ひらりと葉が落ちていった。
思い出した桜の姿と重なる。
春になる頃、またこれればいいなと、サクラは願った。
そうして、冬に向かう秋の桜を後にした。




