第4話 森の中(1)
「せーの!」
ロダとレイがそう掛け声を合わせて、地下の門扉を閉じた。渋い動きをしていたが、錆びた滑車が甲高い音を立て、扉はゆっくりと閉じられた。
息の詰まるようだった空間から広い外に出て、サクラは深く息を吐いた。
足元の固さに視線を落とせば、元はきれいに並べられていたのだろう石畳があった。石の隙間から背の高い草が生い茂っていた。見上げれば遠く空が広がり、曲がりくねった木々があたりを囲んでいた。
見慣れた森の景色だった。
それなのに、いつもなら安心するはずの森が、今はどこか遠い場所のようにサクラは感じた。まるで、廃屋の中の“続き”のようで、身の置きどころがどこかおぼつかない。
サクラの横をふわりふわりと綿毛をまとった光虫が漂った。
耳を澄ますと、草むらのどこからか小さな妖精たちのコロコロと笑う声が聞こえてくる。すべて、いつもの森の風景。
――違う。
サクラの心の奥で、そんな言葉が叫ばれる。
――こんなの、私の知っている世界じゃない。
どこか警告するように、サクラの胸が勝手にざわめいた。
チカチカと顔の横を漂う光虫を、サクラは無意識に軽く手で払った。綿毛がパッと淡く光りながら散り、西日の中に溶けるように消えていく。
ロダが言っていた。光虫の綿毛が散るときに残る小さな光が卵で、それが葉に付くと、夜になるとうっすらと森の輪郭を浮かべるように光るのだと。春になれば卵が孵り、また光虫になるらしい。
ロダは森の暮らしにはまだ不慣れだけれど、そんな小さな変化にはよく気が付く。
前を歩くロダの後姿を見ながら、サクラはぼんやりとそんなことを考えた。
サクラは自分の中に溜まった違和感を消そうと、木々の香りを感じたくて、再び深呼吸をした。
胸の中に溜まった、ぬるくよどんだ空気が外に吐き出され、冷たい澄んだ空気が皮膚の隅々まで広がるようだった。
「やっぱりここに出たな。さっさと帰ろうぜ。ロダ兄の罠も回収しないとな」
レイが背伸びをしてから、背高草の向こう側を見てそう言う。それから腰に下げていた木鉈を手に取ると、草を叩き切りながらずんずんと足を進めていった。その後をロダが口元に手を当てながらどこか上の空で歩き、サクラはロダが変な方向に歩き始めないか薄っすら見守りながら後ろを歩いた。
背高草はすぐに途切れて、現れたのは草に侵食されながらもかろうじて残った広めの砂利道だった。それは、この家を見つける手掛かりになり、そしてこの家まで歩くときに使った道だった。道に沿って進めば分かれ道があり、少し上った先に、今までいた家の玄関が見えた。下っていく道をまっすぐ進めば、群れに戻る道にたどり着くだろう。
サクラはなんとなく、坂の上に見える家を見上げながら歩いた。
木々に覆われて埋もれそうな屋根や割れた窓ガラスを眺めた。今しがたまでいた廃屋。地下室のあの獣人がかつて生きていた家は、もうすぐ森の植物に飲み込まれるのだろう。
彼の娘や妻は、ここでは無いどこかにいるのだろうか。彼を迎えには来ないのだろうか。言いようのない寂しさが胸に込み上げて、喉の奥に塊になるようだった。
「――サクラ! 置いてくぞ」
「あ、いま行く」
知らずに歩みが遅くなっていたのだろう。レイが少し先で立ち止まり声をかけてくれてサクラは小走りに追いついた。
「まだ時間はあるから、転ばないようにいこう?」
「どっちかって言うと、ロダ兄のほうが転びそうだがな。お前らぼうっとしてないで、しっかり歩けよ。遅くなって怒られんのは俺なんだからな」
にこにことロダがそう言うと、レイがそれを横目に見ながら、やれやれと腰に手を当てて深くため息をついた。
――三人は黙々と歩き出す。
足元でじゃりじゃりと小石がこすれる音が鳴り、それが嫌だったサクラは真ん中の柔らかい草が生えたところを歩いた。レイも同じようで、レイはサクラよりも丁寧に足を進めている。この中で、歩くのが一番下手なのはやはりロダで、砂利を踏みながら小枝もよけず、どこかぼうっとしながら歩いていた。
砂利の音は嫌だが、舗装された道は見通しが良く、避けて歩くものも少ない。ロダが考え事にふけるのもわかる気がした。
つい、サクラの頭の中にも、悶々とした思いが廻っていく。
『欲しいものはちゃんと欲しいって言え』
レイの鋭い声がサクラの脳裏によみがえる。
『そのうち……、全部取りこぼすぞ』
――欲しいものって、なに? 言ったら何とかしてくれるの?
飲み込め切れなかったもやもやが、心の内側からあぶくのように浮かび上がる。二人の気持ちを読んで、状況を鑑みて、いつだって、自分が退くことで収まっていくのに。
――置いていこうとしているのはレイのくせに。
前を歩くレイの後姿を見る。木鉈を持って、サクラたちが安全に歩けるように、常に周囲に気を配っていた。
わかっているのだ。自分が幼い子供のような癇癪を抱えているだけだということも。レイが本当に、自分を心配してくれているのだということも。
レイにとって、サクラがただただ負担になっているだけなのも、わかっていた。
――ひとりじめ、したいだけのくせに。
それなのに、自分勝手な思いが、心の中で木霊のように返ってきた。
ロダが群れにやってきたのは三つ前の夏の時期。水も飲めてなくてヘロヘロになっているのを群れの大人たちが見つけて連れてきた、らしい。見慣れない格好をして、床に寝かせられているのを見たのが、サクラがロダに初めて会った時の記憶だ。森の生活を何一つ知らなかったけれど、ロダは不思議な知識を使って、群れに豊かさをもたらした。いろんな道具を発明して獲物を取り、いろんな知識を持って小さな子供たちの病気を治していった。その度にロダは「ただのいっぱんじょうしきだから」と言って控えめにふるまっていたのをサクラは遠くから聞いていた。そんなロダをレイが慕うようになったのは群れに来てすぐだった。特に、ロダが作った“弓”にすぐに興味を示し、我先にと使いこなしていて、その頃から、レイはロダのことをロダ兄と呼ぶようになった。
でも、ロダがレイよりも関心を示したのは、サクラのほうだった。
――同じ世界の出身、だから。
ロダの知識にサクラは既視感があった。
遠い昔に教わったことをおぼろげながら覚えていたからだ。
あの日、ロダがなんて声をかけてきたのかも、サクラは鮮明に思い出せた。
戸惑いも、驚きも。
自分の、本当の世界があったことも。
―――
「それ、どこで覚えたの?」
突然声をかけられて驚いたのを覚えている。
そして、そんなわたしよりもさらに驚いた顔で、ロダがわたしを見ていたことも。
森から食べ物を探してくるように言われていて、実っていた果物を群れに持ち帰った時だった。
後ろから声をかけられて、振り返った。最近、群れに連れてこられて、しばらく寝込んでいた子。年のころが近い、でも自分よりちょっとだけ年上に見える男の子。
「……それって?」
何を聞かれたのかわからなくて、聞き返すと、ロダが果物を指さした。
「数えてたでしょ? “いっこ”、“にこ”、“さんこ”、って」
それは、いつも無意識に口に出していたことだった。
自分だけがなんとなく口にしていることで、ロダが知っていることに驚いた。
――数を数える。
わたしは、わたしがしていたことにどんな意味があったのか、ロダの言葉で初めて思い出した。
――そう、これは数を数えていたんだ。
群れでは食べ物のことを「たくさん」「両手いっぱい」「すこし」とかで分けていた。
足りるか足りないか、それだけで充分で、わたしのしていることに意味があるなんて、考えもしなかった。
「誰に教わったの?」
『サクラ、じょうずね』
おぼろげながら覚えている声。
やさしかっただれか。
ここに来てから蓋をしていた記憶の塊が、胸の奥から溢れそうになって、わたしはきゅっと喉を掴んだ。
「……わかんない。たぶん、……落っこちてくるまえ」
わたしがそう答えると、ロダは少し黙った。
ロダはまるで、壊れてしまったものに触れるような、そんな表情で、わたしを見た。
わたしには、それがどんな理由だったのか、ロダの気持ちがまるでわからなかった。
それから、ロダはたくさんの“ちしき”を私だけに教えてくれるようになった。
数の数え方から、簡単な計算の仕方。文字の書き方。元の世界の動物や物の名前。きれいな生活の仕方。ものの考え方やロダにとっての“いっぱんじょうしき”。雑多で脈絡のないことも、役に立たなそうなことも、全部。
まるで、私を通して何かを取り戻そうとするように。
そして私は、失ってしまった過去の宝物を掘り起こすように、ロダの“知識”をひたすら頭に叩き込んだ。
お互いが、お互いの中に、遠い何かを見ているように。
そして、最近ロダがわたしに教えてくれているのが――
―――
「おいサクラ! どこ行くんだ、そっちじゃないぞ!」
レイに声をかけられて、深く沈んでいた思考からサクラは意識を浮上させた。




