第2話 廃屋(1)
がしゃんと、落ちたコップが床の上で粉々に割れる音がした。
はじかれたようにまたサクラは振り返り、それを見た。
埃とカビで覆われた腐った床の上に、白い破片が散らばっている。部屋を物色して、めぼしいものが無い部屋から出ようと振り向いたとき、背中の荷物にテーブルの上のコップに当たったのだろう。
足が動かない。
視線が、くさびで打ち付けられたみたいに、割れたコップから離れない。
脳裏によみがえる過去の光景に、思考がからめとられた。耳元によみがえる母の声。記憶の中の感情が、サクラの心をつかみ、激しく揺さぶる。
「サクラ、大丈夫」
肩に置かれた手に、サクラははっと意識の主導権を取り戻し、やっと顔を上げた。
ロダの黒い優しい瞳が、サクラの顔を覗き込む。サクラは無意識に手をかばうように握りこんだ。
「けがした? 手を切ったのか?」
「大丈夫、切ってない」
散らばった破片から、意識して一歩距離をとる。厚めの布を巻いただけの足で破片を踏めば、けがをしてしまう。
「よかった。けがしたら、すぐに言うんだよ」
ロダはそう言って、サクラの頭を軽くなでて、床の破片はそのままに、また戸棚を漁る作業に戻っていった。
サクラは肺に落とし込むように、鼻から深く息を吸った。カビの生えた室内は、よどんで重苦しい空気に満たされていて、深呼吸したことをサクラは少し後悔した。
気分を変えるように、サクラはロダに話しかけた。
「……ロダは、獣人とこんな家で暮らしたことがあるんでしょ」
「……少しね」
ロダはどこか応えづらそうにそう言った。あまり話したがらないことを知っていたのに、動揺していたサクラは、つい前から気になっていた事を聞いてしまった。
その先の言葉が見つからなく、サクラは視線を逸らした。その先に広がる半分朽ち果てている部屋。崩れた屋根の向こうに青空が見えて、薄暗い室内をほんの少し照らしている。流し台の上には木材とガラスでできた窓があったが、長年の汚れと外側に生い茂ったツタでほとんど光が入ってこない。家の中のものはどれも大きく、壁に寄せられた椅子などサクラの背丈ほどはあった。いったいどれほど大きな存在が、ここで生活していたのだろうか。
「まるで巨人の家だよね」
サクラの視線に気づいたロダが、サクラにそう話しかけた。
「獣人って、みんなこんなに大きいの?」
「種族によるかな。でもほとんど大きいよ」
一緒に椅子を見ているが、ロダにとっても頭一つ分椅子のほうが低いくらいで、もしこれに座るならよじ登らなければならないだろう。
「金の卵でもあればいいのにね。まあ、人間じゃ猫に何とかだろうけどね」
「金の卵って?」
あとで教えてあげるよと言って、ロダは見つけた食器や使えそうな調理器具を椅子の上に置き始めた。そこから、さらに選んだものを麻の袋に入れていく。
サクラもそれに倣って床に置いていた見つけた食器を椅子の上に並べて、割れていたり、使えそうにない物を避けて、ロダの持っている麻袋に詰め込んでいった。
壁に飾られた額縁に入った写真に、服を着た熊が三匹映っているのが、サクラの目に留まった。二匹は大人で一匹は子供のようだった。三匹ともにっこりと笑っているのが、茶色く煤けていてもかろうじて分かった。おぼろげに覚えている自分の家族写真と同じように、そこには愛情があふれているように見えた。
「なんでこっちは言葉がわかるのに、獣人にはこっちの話す言葉がわからないの?」
サクラはふと、ロダが獣人と会話できなかったことを以前ぽろっと話してくれたことを思い出した。獣人の言葉を覚える事はできたが、いくら話しても理解してもらえなかったと、ロダが以前言っていた。
「……これはあくまで僕の想像なんだけど」
「うん」
「たぶんさ、獣人の言語って言葉だけじゃないんだと思う」
ロダの言葉にサクラは首をかしげる。
「……私たちが話しているような?」
「そう」
ロダが部屋の端にある調理台のほうを見た。そこには前の世界で見たようなガスコンロではなく、ガラスの天板に丸の模様が二つ刻まれたものが置かれていた。前によじ登って観察した時、その丸い模様は細かい文字のような模様が書いてあるのが見てとれた。
「彼らが使う道具を僕は使うことができなかったんだ。僕には、……多分人間には使えないんだと思う」
この家に初めて入ったとき、サクラは転移する前の記憶で、電気のスイッチやツマミ、ボタンなどを探した。だが、そういったところにありそうなものは、全て青い水晶の様な物が嵌め込まれていた。模様も形も様々なそれをサクラは何かのスイッチだろうと目星をつけて何度か触れてみたが、明かりがついたり、なにか動かせたりもできなかった。電気が無いのだろうくらいにしか思っていなかったが、ロダの話しを聞く限りどうやらそうでは無いらしい。
「僕たちの持っていない能力を仮に“魔力”だとして、彼らは会話をするのにもその“魔力”を使っているのかもしれない。その“魔力”が言語にも織り込まれていて、彼らはそれを送信する器官も受信する器官も持っている」
送信。受信。サクラはロダが以前教えてくれた知識と照らし合わせた。
「……前にロダが話していた、アンテナ? みたいなもの? それがないから会話ができないの?」
「そう。僕たちにはそんな器官はないから送信も受信もできない。でも音では理解できるから、ある程度の意味を読み取ることはできる。でも、魔力を持たない僕たちの言葉は、彼らには理解できない……とか? あくまで推測だけどね」
「へえー」
ロダの話すものが難しいものになると、サクラはいつもそれを一旦、理解できるできない云々は置いといて、ただそうなのだと理解して頭の中にその知識を入れておく。ロダが話す事はいつも正しい。断片のように積み重なる知識がサクラは好きだった。それは、ロダがもたらしてくれる、前の世界との唯一の繋がりだったからだ。
「例えるなら、イルカの超音波を使った言語と人間の言語では、会話はできない。でも、ある程度の意思疎通は訓練や解読でできる……みたいな感じかな」
「イルカは……海の生き物だっけ?」
「イルカはねえ、海で生きる哺乳類で、頭の上に鼻があって、海面に上昇したときにそこで呼吸をして、あとは海の中を泳いでいるんだよ」
「鼻が頭の上。……よくわかんない、描いてみて」
ロダが、床の上に溜まった埃の上に、落ちていた木製のフォークの柄を使って絵を描いた。三日月の形にとんがったここは背びれだと教えてくれた。
「見たことある気がする」
「ほかにも鯨とかシャチとか、海で生きる哺乳類って結構いるんだよ」
「くじらは……背中から水を出しているやつ?」
実際には水を吹いているんじゃなくて呼吸をしているんだけどね、と言いながら、鯨の絵、シャチの絵をさらに描き足す。
「彼らは海の中で会話しながら狩りを」
ーー背後で床のきしむ音がして、サクラとロダはばっと背後を振り返った。
「またやってるよ」
不意に響いた声にロダとサクラは視線を上げた。
そこには腕組みをしてこちらを見下ろすレイの姿があった。少し釣り目気味の眦と、色素の薄い茶色の瞳は、どこかいたずらっ子のような印象を周りに与える。しかし、この三人の中で一番のしっかり者だ。作業を止めてほかのことをし始めていたサクラは、ロダと一緒にバツが悪くて肩をすくめた。
「そんなことやってたら日が暮れるだろ」
イライラとした様子でレイが床をトントンと足先で音を鳴らす。
「ごめんな、レイ」
「ごめんなさい」
こういった時は素直に謝ったほうがレイの機嫌を損ねないと知っているサクラは、すぐに謝罪の言葉を口にした。ロダも同じだったようでいつものごとく声がそろった。
サクラとロダがそう謝ると、レイがサクラの方を見てチッと、小さく舌を鳴らした。サクラは、レイの苛立ちを感じ取ってびくりと肩を震わせた。前の世界の話をしているとレイのいら立ちが強くなるが、そのいら立ちは、なぜかいつも自分に向く。サクラはレイから視線を逸らした。レイの特大のため息が聞こえて、それからレイがロダに話しかける。
「ロダ兄、こっちに地下の扉を見つけたんだ。ちょっと手伝ってよ」
わかったとロダが立ち上がり、部屋を出る。サクラもそれに付いて行こうとすると、レイに前を塞がれた。
「サクラは着るもん探して。こっちはいいから」
「……わかった」
サクラは渋々頷いた。秋口でも夜の寒さは身に染み込むように冷たい。防寒着はいくらあっても困らないだろう。
ーーそう言い聞かせて、二人を見送った後、サクラも部屋を後にした。




