第1話 割れた世界
テーブルの上に置かれたママのコップ。食べ終わった自分の食器をシンクに置いてきた後、それが目にとまった。ママの飲んでいたそのガラスのコップには麦茶が少しだけ入っていた。
ママは、さっき妹が泣いたから、抱っこしておっぱいをあげるために寝室に入っていった。たぶんそのまま寝かしつけをする。
わたしは、疲れたママのためにコップを片付けてあげようと思った。コップをもってキッチンに向かった。蛇口とスポンジがかろうじて見えるけれど、シンクの中はわからない。割らないように、シンクの前で背伸びをして、なるべく腕を伸ばしてシンクの中に置こうとした。
「あっ……」
つるっと手から滑り落ちたコップ。なにかに当たってがちゃんと鳴った。
わたしはその音を聞いて固まった。頭が真っ白になる。
シンクの奥、高い棚の上で、上着を着たみたいな模様をした猫のガウンが、わたしを見てにゃあと鳴いた。やっちまったなあ、と笑うように。
その声を聞いて、固まっていたわたしは動き出した。冷蔵庫の横に立てかけてあるわたし専用の折り畳みの踏み台を持ってきて、シンクの前に置き、踏み台に乗ってシンクの中をのぞく。朝ごはん、昼ご飯で使った自分の食器とママの茶碗。そこにガラスのコップが半分に割れて、きらきらとした欠片がシンクに広がっていた。
わたしは思わず手を伸ばしかけたけれどひっこめた。
「……ガラスは触っちゃダメ」
割れたガラスは触っちゃだめだとママが言っていた。けがをするから。わたしはママを呼びに行こうとした。でも、ママは妹の寝かしつけをしているのだと思い出した。
(怒られる)
わたしは泣きそうになった。しゃっくりがでたら涙が出てしまう。泣いたらだめだと、わたしは喉をきゅうっと掴んで、しゃっくりを我慢した。
ママはずっと疲れている。『あなたまで泣かないで』とさっきママに言われた。泣くとママが困ってしまう。コップまで割ってしまって、もっともっと困らせてしまう。
わたしは、シンクの中の割れたコップを見ながらどうしたらいいか考えた。考えて、考えて。そのあいだに、猫のガウンはどこかに行ってしまった。
わたしは、ずっと前にパパがママの茶碗を割ってしまったのを思い出した。すんごい前。たしか四歳だったと思う。このあいだお誕生日して五歳になったばかりだから、すんごい前だ。
パパが茶碗を洗っていたとき、まちがって割っちゃって。そのあと、ママが泣いて、怒って、パパが謝っていた。それからすぐ、パパはホームセンターまで茶碗を買いに行った。ママが泣くから、わたしはママのお腹をなでながら「大丈夫だよー」と、まだお腹の中にいる妹に声をかけたんだ。
パパが茶碗を買ってきて、またママに謝って、それからパパとママはぎゅっとハグをしていた。ママも怒ってごめんねとパパに言って仲直りをしていた。
わたしはこれだと思った。新しいコップを買って、ママにごめんねをすればいいんだと。そうしたらママは、パパにしたように、わたしにも、ママも怒ってごめんねって言ってくれる。もしかしたら、怒るのも無くなるかもしれない。
わたしは、乗っていた踏み台から飛び降りた。そうした後で、これもしちゃいけないことだったと思い出して、ママがいる寝室のドアを見た。飛び降りた音にママは気付いていないようだった。
床に落ちている汚れた妹の服や自分が並べたおもちゃの間をトントンと飛び越えて、テレビ横のおもちゃをしまう棚にたどり着く。カゴを引っ張って出して、自分のバックを取り出した。
中を開けて、自分のお財布の中身を確かめる。お正月にもらった“おとしだま”の紙が一枚入っている。これは大きいお金だから、高い物も買えるはず。百円玉も三枚。これだけあれば多分買える。
わたしは、財布を入れてバックを肩にかけた。お気に入りのバックは犬の顔になっていて、パパがクレーンゲームで取ってくれたものだ。わたしがどうしても欲しいと言ったら、パパが何回も百円玉を入れて、何回も失敗して、店員さんが取りやすいところに置きなおしてくれて、やっと取れた、お気に入りのバック。わたしは猫が苦手だ。ガウンはずっと前から家にいるけれど、わたしを何度もひっかいてくるから。
遠い所に住んでいる、ばあばの家で飼っている犬のサルタはわたしが来るとぶんぶんとしっぽを振ってベロベロと舐めてくれる。サルタの名前は近所の神社の名前からもらったって言っていた。雑種のサルタは長い真っ黒のクルクルしたフワフワの毛並みで、なでるとお日様のような匂いがした。だからわたしは犬が好き。バックも犬がお気に入り。それに、このバックを持っていると、自分も犬を散歩できる大人になったみたいで、心が強くなれる。
わたしはそうっと、リビングから玄関への引き戸を開けた。横にひくとキイキイ音がするのは、わたしが何回か突進して体当たりしたせいで、どこか曲がってしまったかららしい。前にすんごい怒られた。
ママに気付かれないようにそっとまた引き戸を閉めた。保育園に履いていく靴を戸棚から取り出す。靴を履いて、玄関を見上げたとき、こわくなった。
(外にひとりで行っちゃいけないんだった)
ママに絶対に一人では出ないように言われていたのを思い出した。
玄関のドアの取っ手が黒くて大きくて、掴むのが怖くなる。
引き返そうかと思った。
でも、妹のことを思い出した。
(ママが大変だから、ひとりでなんでもできるようにならないと)
そう、もうお姉ちゃんになったのだ。ご飯もひとりで食べられるし、食器も一人で片付けられる。お茶をこぼしたら拭く様に、コップも壊したら買いに行けばいい。そしたらママは、前みたいに、ひとりでできてえらいねって、きっと褒めてくれるはず。
(ホームセンターの場所はしってる)
家から歩いて行ったことがあった。その時はママと一緒だったけど。その時も歩いて行けた。今日もきっと行ける。
わたしは玄関のカギを回して開けた。もう一つ上にあるのも。背伸びをしなくても手を伸ばせば簡単に届くようになった。自分が大きくなったことがわかって、わたしは少しうれしくなった。この調子で、きっとコップも買えるはず。ガチャリと音を立てた玄関のドアはとても重くて、自分の体重で押しながら開けた。
「……サクラー? 何しているのー?」
ママの声だ。妹の寝かしつけが終わったんだ。
「なにもしてないよー」
すぐにお返事しながら、お外に出るあいだにドアに挟まれないように、めいっぱい押した。
「サクラー?」
リビングの向こうにある、寝室のドアが開いた音が聞こえた。
ママが来る前に閉めないと。
わたしは、ママが来ないか見張りながら、うしろ歩きで足を出した。
「―――」
滑り台から滑り落ちるような感じがした。
声も出せない。おなかの中がふわっとして、わたしは体を縮こませた。
転んだと思った。どこかにおっこちたと。
でも、玄関から出てすぐの段差なんて、そんなにないはずなのに、ふわっとした感じはずっと続いた。
玄関のタイルがお顔の横をかすって、目の前がまっくろになった。
すとんとどこかに落ちるように、わたしはなにもわからなくなった。




