第7話 日常(2)
「じゃっ!! ……じゃじゃ馬じゃないし」
思わず洗濯棒を握りしめながら立ち上がり、否定しようとした言葉は、あまり声を荒げることに慣れてなくて、語尾が尻すぼみになっていった。
レイがまた揶揄いはじめたと、サクラの胸は奥のほうまでむっと熱くなった。
レイはサクラのほうを見ないまま、川面のほうを眺めながらなおも言い募った。
「いや、じゃじゃ馬だった」
「じゃじゃ馬じゃない」
「じゃじゃ馬」
「違うってば!」
「違わねえよ」
何度言っても、レイが淡々と言葉をかぶせてくる。
ムッとしながら、首の後ろを掻くレイを見下ろす。
サクラの様子に気付いているのかいないのか、レイがおもむろに腰に下げた木鉈を手に取ると、刃が欠けたりへこんだりしてないか手で撫でて確認しはじめた。
「……お前が群れに来たばっかりの時さ」
ぽつりとレイが呟く。
「変な言葉しかしゃべんないお前が、ほうぼう逃げ回って暴れて泣き出して、挙句には一番高い木によじ登って降りられなくなって」
かあっと羞恥で頭に血が上る感覚がした。
うっすら覚えている。
いきなり家とは全然違う森の中にいて、帰りたくて、臭くて変な人たちから逃げたくて、言葉も通じなくて、帰り道を探そうと木に登ったら、そこから降りられなくなったのだ。
「しょうがないから俺が登って降りるの手伝って。……降りた瞬間、なぜか俺の手を掴んで走り出してさ」
「それは、その……」
サクラは記憶の中の自分の気持ちを思い返す。
「レイも、攫われた子だと思って……」
「は?」
「いきなり知らないところにいて、自分もレイも攫われた子だと思って」
レイが目を見開いてこちらを見てくる。
この人たちは悪い人たちで、自分は連れてこられたのだと思ったのだ。怖くてしょうがなくて、木に登っても帰り道がわからなくて。そのまま走って逃げようとした。
その時、目の前にいた自分より小さいレイのことも、同じように攫われた子だと思って、一緒に逃げようと手を取ったのだ。
突然、レイが声を上げて笑い出した。
「なっ、笑わないでよっ!」
「……俺のこと引っ張って走ってさ、そのくせ川に落ちやがって、俺までびしょ濡れになってさ。泣きたいのはこっちなのに、そしたらお前のほうが大声で泣きだしてさあ」
そうかそうかとレイが涙まで浮かべながらゲラゲラ笑って話すのを、むくれて反論しようとするが言葉にならなかった。
「……お前、そんなこと考えてたんだ」
ひとしきり笑った後、ぽつりと落とすようにレイが言葉をこぼす。
笑い涙をぬぐいながら、さらに言葉を続ける。
「……なんでか、おばばだけお前と話せてさ。べそべそ泣いてるくせにお前の腹が鳴って、なんなんだこいつ? って、こっちは無性に腹が立ってさ」
「なんでそんなことまで覚えているのよ」
サクラがぼそぼそとそう文句を言うと、レイがこちらを見て微笑んだ。
「そっかお前、……俺のこと守ろうとしたんだな」
「……結局、川に落としただけだけどねっ」
嫌味っぽくサクラはそう返した。
レイが、あははと声を出して笑う。
こんなに機嫌のいいレイは久しぶりに見たかもしれないと、サクラはそう思う。
「何言ってっかわかんないのに面倒ばっかかけて、なんかしんないけど俺のこと連れまわしてさ」
「……」
じゃじゃ馬じゃない、と否定していたが、たしかに思い出す自分はずいぶんと暴れに暴れていた。
あの頃のレイは、自分より小さくて、女の子みたいな顔をしていた。
守らないと、とそう思って、レイの手を引いて連れまわしたのだ。
「……それがさ、いつの間にかしゃべれるようになって、逃げもしなくなってさ」
少しレイの声が沈んで、サクラはレイのほうを振り返った。
レイは手に持った木鉈を見つめたまま、小さく息を吐いた。
「……怒んなくなったよな」
レイの口から、重く言葉が落ちる。
「え?」
さっきまで笑っていたはずのレイの表情が沈む。
「大丈夫、大丈夫って。ごめんごめんばかり言って」
そう言って、レイは腰に吊るした皮ひもに木鉈を戻した。
立ち上がって、サクラのほうを見る。
サクラがほんの少し見上げると重なる視線。
レイの瞳に浮かぶ感情が、よくわからない。
よくわからないのに、そこには何かの熱量があって、無意識に怖気づいた。
「……前は、……そうじゃなかったろ」
レイの言葉に、ぐうっと喉が苦しくなる。
違う、とそう言い返したかった。
それなのに、吐き出したい言葉が詰まったように、苦しくて、サクラは喉元に手をやった。
その途端、レイがぐっと息をつめて、表情が曇った。
「ほらそれだよっ、やめろよそれ! お前は、」
「おいレイ!」
レイが続けようとした言葉が、遠くから呼びかけられた仲間の声でかき消された。
「そろそろ行くぞ! いつまでやってんだ!」
レイが振り向き、サクラも視線を先へとやれば、群れの入り口でレイを待つ大人たちが、レイに向かって手を振っていた。
「……わかった! いま行く!」
レイが呼びかけにそう答える。
サクラは喉元にやった手を、離して、見て、誤魔化すように両手をもじもじと握り合わせた。
「……とりあえず行ってくる。なんか、森の様子が変なんだってさ。狩りしながら見回ってくるから遅くなると思う」
聞いてもいないのにレイが頭をガシガシと掻きながらサクラにそう言う。
「レイ早くしろよ!」
「お前、疲れてんだからあんま無理すんなよ! その隈なんとかしろ! 寝ろ! じゃあな!」
そう言いたいことだけ言って、レイは駆け出して行った。
合流したレイが肩を小突かれながら笑って集団に入っていき、そのまま群れの外へ行くのをサクラは見送った。
――言いたいことだけ、言って……。
むふうと、サクラはため息を吐いた。
からかわれたような、心配されていたような、よくわからないモヤモヤが胸の中にわだかまりとして残った。
その塊を抱えたまま、思考が奥に行ったまま、川べりに再びしゃがみ込みサクラは手を動かし始めた。
叩いて、伸ばして、濯いで、絞って。
――じゃじゃ馬、……じゃじゃ馬ね。
レイに言われたことを反芻する。
レイは、自分でも覚えていないことを、驚くほどよく覚えていた。
逃げようと木に登ったこと。
川に一緒に落ちたこと。
おぼろげに覚えている自分の行動は、思い返せば確かに恥ずかしいことばかりだ。
ただ、さきほどの楽しそうに笑うレイの表情が目に焼き付いていた。
いつもムスッとして、小言ばかりで、険しい表情をしているレイ。
何か言えば、舌打ちばかりするレイの、あんな楽しそうな表情は久しぶりだった。
それでも恥ずかしさがこみあげて、むすむすと不満が頭をもたげる。
――あんなに笑わなくても。
自然と洗濯物を叩く手が強くなる。
頬に飛び跳ねた水滴の冷たさが、頬の熱を自覚させた。
子供のころの話だ。
それも、この世界に“落ちて”来たばかりで、混乱していた頃の話。
この世界に慣れて、落ち着いて、諦めて。
ぼすんぼすんと、服がすり減るんじゃないかと思うくらい、無心で叩いていく。
あの頃のことを思い出したからだろうか。
――…………そうだ。
サクラはふと思い出した。
――おばばに言われたんだ。「あきらめろ」って。
言葉だけが、残っている。
背を向けたおばばの、深く胸に刻みつけられた言葉。
そう、子ども心に覚えている。
そう言われた瞬間の、まるで世界から切り離されたかのような、冷たい感覚を覚えている。
――「無駄なことはするな」。
今朝おばばに言われた言葉が、脳裏によみがえって、重なった。
悶々と沸き上がる疑問に、洗濯棒を持つ手が止まる。
――なんで、おばばは知っているんだろう?
自分とロダ以外、元の世界のことを知っている人間はいなかった。
――おばばは、……知っていたんだ。
ぞわりと背筋が粟立った。
どうして、今まで、忘れていたんだろう
帰れない、諦めないといけない。
幼かった自分は、その現実を受け入れるために、そもそも元の世界を考えないようにしていた。記憶から消すほどに。
それが、ロダが来たことで、元の世界のことをたくさん思い出して。
そして、レイの言葉で、押さえこんでいたものが、出てきて。
その時だった。
ざわりと、森の葉がさざめき立った。
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