第6話 ロダの”家”(2)
サクラは眠い瞼を軽くこすった。
ろうそくは半分ほどの長さになっており、溶けた蝋が下で白く固まっている。
あくびが出そうになるのをサクラは気づかれないようにそっと口の中でかみ殺した。
作業台の上には開いた本が数冊並び、今日、廃屋で見つけてきた本もあった。
その本を使って、ロダが朗々と吠えるような声や喉の鳴るような音を交えながら読んでいる。
低くてきれいなロダの声。音が連なるその声を聞いているとまるで子守歌のようで、余計に眠くなるのをサクラは必死に我慢した。
短く文章を読み切ったロダが文章の意味を説明してくれた。
「ここの意味はたぶん、『月が陰るまで、私はあなたの鼻先を、見ていたかった』かなぁ」
「……鼻先って、なんか変だね」
目でも表情でもなく、鼻を見つめあう姿を想像して、サクラはふふと少し笑った。
ロダがサクラに微笑みながら続ける。
「確かにね。……獣人は鼻先や匂いで感覚を伝えているところがあるのかもね」
ぺらぺらと、隣で横になっているロダがページをめくる。それから元のページにもどるとひとつ頷いた。
「この本は恋愛小説なのかもね。“月”“鼻先”“陰る”“触れる”。音の調子が違うのがわかる?獣人の言語は、はっきりとした音の区切りよりも、高さ低さの流れがあるみたいなんだけど」
爪でひっかいたような形をした文字。喉の奥で唸るような音も混じるロダの声。単語ごとの音の違いはわかっても、それぞれが何の単語なのかまで理解できそうになかった。
サクラは緩く首を振った。
「わからない? そうだよね、僕も自信ないし。でも、単語だけでも知っていれば、きっとそのうち理解できるようになると思うんだ」
「……ロダはよくわかるね」
素直に感心してサクラはロダに話す。この言葉をロダの声で覚えても、獣人達には伝わらないのだから、それがひどくもどかしく感じた。
ロダが肩をすくめた。
「……必要だったからね」
「言葉が伝われば、獣人の人たちにも、人間のことわかってもらえるのに。そうしたら、群れが襲われることもない。もしかしたら街で一緒に暮らせるかもしれない」
ロダから聞いた獣人の街の様子。今日行った廃屋から垣間見えた生活の名残。
もし、人間のことを知ってもらえれば、“獣”ではなく、同じ“人類”?として、扱ってもらえるはず、なのではないかと、そうサクラは思った。
「……そうだといいんだけどね」
ロダがぼそりと呟く声に、サクラはえ?と聞き返した。
ロダがふいににっこりと笑って明るい声の調子で言う。
「さ、この本はこれくらいでいいかな。今度はこっちも見てみよう?」
そう言って本を閉じて、ロダはさらにほかの本も広げる。
その間に、ずっと横になって肘をついていた肩が強張っていて、サクラはロダに気付かれないようにぐっと伸びをした。
「これね、子供向けの教科書だと思うんだ。こっちは算数、これは科学。挿絵もあってわかりやすいよね。僕の覚えている知識だけじゃ偏りがあるし、これを見つけられてすごく運がよかったよ。ほかにもあるから、あとで教えるね。じゃあまず算数だけど、僕が教えた掛け算はもう覚えたから」
サクラはまたあくびが出そうになって、口の中でこらえようとしたが、ばちりとロダと視線が合ってしまった。慌てて口元を押さえる。
ロダがサクラの様子を見てくすりと眉を下げながら笑った。
「ごめんね、疲れたよね。今日は遠くにも行ったから。じゃあ今日は、この算数やったら終わりにしよう」
そう言って広げた算数の教科書。かわいらしいウサギの女の子が指を刺した先には、獣人言語の数字が並んでいる。計算式がいろいろと書かれているようだった。
ロダがさらさらと獣人の言語で紙の上に計算式を書いていく。
サクラは、ときどき止まりながら、その度にロダに教えてもらいながら、数式を解いていく。
獣人の数字は、文字と同じように、爪でひっかいたような形をしていた。線の始まりが太くて端が細くなる。ひっかいた横に点が付いている数字や文字もある。
獣人言語の数字も教わっていたサクラは、ロダに教えてもらったことも思い出しながら、差し出されたページを読んでいく。
しばらくの間、サクラはロダに教わりながら、つっかえつっかえページを進めていった。
獣人の子供が数人、果物を持って並んでいる絵に目が留まった。
それが夕食の時の、子供たちが並ぶ光景と重なった。
「……ねえ、ロダ」
「ん? わからないところあった?」
サクラはふと、疑問に思っていることをロダに尋ねた。
「どうして私だけなの?」
「え?」
「勉強。……群れのみんなにも教えないの? ほら、子供たちとか、大人にも教えたらきっと、みんなのためになるだろうし」
ロダは大人たちに新しい罠や、保存食の作り方などは教えている。子供たちが病気にならないように手を洗うことやきれいな水を飲むことも教えている。でも、こうしてサクラに教えるように算数や科学、文字を教えることはなかった。
「きっと、みんなロダの知識知りたいと思う」
そう、サクラはロダのほうを振り向いた。
振り返った先のロダの表情が、一瞬、息を止めたように固くこわばって見えた。
え? と思う間もなく、ロダが眉を下げて、どこか困ったような笑みを浮かべた。
「意味がないからね」
「意味……え?」
ロダの言いたいことがわからなくて、サクラはとっさに聞き返す。
ロダの困ったような表情が、少しも変わらないことに、サクラは言いようのない違和感を覚えた。
「うーん、そうだな……、うん。……僕は、必要な人に教えているだけだよ?」
「……みんなにも必要だよ?」
ロダの言う言葉は、群れの子供たちにも、大人たちにも、知識などは必要ないと言っているようなものだ。その線引きが、ロダの中であまりにもはっきりと引かれすぎていて、サクラは戸惑った。
「サクラには必要だから」
サクラはなんて返していいのかわからなくなった。
視線が自然と下に落ちる。
会話が止まり、静かに揺れるろうそくの芯が燃える音まで聞こえてくるようだった。
サクラは無意識に息をつめた。
ロダがぱたんと本を閉じる音が大きく鼓膜に響いた。
「今日はここまでにしようか」
そう言うと、ロダはすっと立ち上がった。
作業台の上のろうそくを消し、本をそれぞれの棚に戻していく。
サクラは体を起こして、ロダに問いかけた。
「……レイのことも?」
「うん?」
ロダがいつもの微笑みのままサクラに振り返る。
サクラは、じっとロダを見つめながら言葉を続けた。
「レイも、必要じゃないから、教えないの?」
「レイはそもそも勉強が好きじゃないだろう?」
「……そうじゃなくて」
ロダが柔和に笑みを浮かべながらサクラの言葉を待っているが、ロダの表情に、サクラは言葉が続けづらい。
それでも口を開く。
これだけは、聞きたかったから。
「今日、言ってたこと。……私だけでも連れていくって。……あれ、どういう意味だったの?」
――どうして、私だけ?
置いていかれたくない。
それはサクラの本心だった。
でも、あんなふうに言われて、レイが傷つかないはずがない。あんな風に、ただ、利用するだけだと宣言するような関係では、二人は無かったはずだ。
ロダの顔からすっと表情が消える。
ロダが、少し黙る。それから肩をすくめた。
「…………さあ?」
「さあって……」
あまりに雑なロダの返事に、サクラは戸惑った。
いつも丁寧に説明してくれる。言葉を選んでくれるロダがこんな返事をするのを、サクラは初めて聞いた。
口元が笑っているのに、いつものロダではないように感じる。
知らない人が目の前に立っているような錯覚を、サクラは覚えた。
不意にふうーっと、ロダが俯きながら深いため息を吐くから、サクラはびくりと体を震わせた。
ロダの気持ちがわからない。それが、サクラをひどく不安にさせた。
ロダが顔をあげる。
いつもの柔らかい笑みを浮かべて、ロダがサクラに手を伸ばした。
「ほら、起きて。片付けるの手伝って?」
「……うん」
ロダの手を掴んで起き上がる。
視線も合わせないまま、いつもと同じように勉強会の片づけが始まった。
全部、うやむやにされた。
もやもやとした何かが喉の奥につっかえたように残ったが、それ以上問う勇気はサクラにはなかった。




