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葬列通りの少年―未来の自分がいる列のうしろ  作者: 妙原奇天


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第13話 母

 音が戻ってきた。

 ほんのわずか、一秒ぶん。


 椅子の脚が畳を擦る。

 湯のみの縁が受け皿に触れて小さく鳴る。

 止まっていた湯気が、細い糸になって立ち上がる。

 そのすべてが、同じ一秒の中で息をした。


 母が目を開けた。

 長く閉じられていた瞼の下から、湿った黒がのぞく。視線は迷わず凪人を捉えた。まるで、目を閉じていたあいだもずっとこちらを見ていたみたいに、ためらいがない。

 凪人の喉がひとつ鳴った。うまく息が入らない。胸の奥から、言葉の順番がばらばらに浮かぶ。昨日と今日が混ざる。


 母の右手が、空を探すように持ち上がった。

 凪人は膝を前へ進める。手が頬に触れる。

 温度は、昨日の温度だった。

 毛細血管の震えのような微かな熱が、指の腹から伝わってくる。止まっていた世界に戻れなかった熱だけが、ここにいる。


 「おかえり」


 言葉は、静かだった。

 でも、その静かさが胸に刺さる。

 凪人は唇を開く。

 「ただいま、と言って、いた」

 過去形で出た。癖はすぐには変わらない。母の指先が、頬の上で少しだけ力を込める。

 「ただいま」

 今度は、今の形で言えた。

 言ってしまうと、涙が喉にせり上がる。泣けば、世界がまた止まってしまう気がして、ぐっと飲み込む。


 廊下の向こう、影がひとつ動いた。

 灰色のコートの青年だ。

 彼は音を立てない。けれど、彼がいる場所の空気だけが薄くなり、光が硬く見える。母はそちらを見ない。けれど、気づいている気配があった。最小限のまばたき。耳の筋肉のわずかな緊張。

 青年は一歩、廊下の陰へ身を引いた。距離を測っている。近すぎると、何かがほどける。遠すぎると、何かが固まる。その真ん中を探すみたいに。


 「お茶、飲む?」


 母の声が、いつもの台所の声になった。

 凪人は笑いそうになって、笑えない顔になった。

 「……飲む」

 母は椅子からゆっくり立ち上がる。ブランケットの端が膝から滑り落ちる。凪人は慌てて拾い、背もたれにかけ直した。

 台所の椅子を引く音がして、流しの前で足音が止まる。ヤカンの取っ手に触れる指が、金属の冷たさにびくりとした気配を見せる。火は点かない。けれど、母はいつもの手順でヤカンを傾け、ポットに注ぐふりをして、蓋を開けて中を覗き、また蓋を閉じた。

 ふり、と手順のあいだに、湯気がかすかに戻る。戻るはずのない湯気が、作法に合わせて立ち上がる。世界は、作法に弱い。正しい順番を見せられると、従いたくなるのかもしれない。


 湯のみが二つ、盆の上でかすかに揺れた。

 母が戻ってくる。

 「熱くないけどね」

 「うん」

 口に含む。温度は、昨日の温度に似ている。ぬるさの手前で止まっている味。舌の上で、塩気と甘みの記憶だけが動く。

 母は湯のみを両手で包み、凪人の顔を真っ直ぐ見た。

 「葬列は、あなたを連れていかない」


 言い切った。

 その断言に、揺れがない。

 世界が一秒ぶん進んだ強さで、確信が置かれた。

 凪人は、信じたいと思った。

 でも、胸の内側で何かが動いた。ポケットの布が軽くなっている。指先で探る。二つ折りの紙の角が触れない。

 最後の朝の写真が、ない。


 顔を上げると、廊下の影の青年が胸ポケットに手を添えていた。

 布越しに、紙の角が輪郭を作っている。彼はそれを握っていた。

 少し顎を下げ、唇がわずかに動く。

 ——戻れ。

 音にはならない。意味だけが落ちてくる。

 母は首を横に振った。

 「進みなさい」


 言葉が、重なった。

 戻れ、という無音と、進みなさい、という声。

 二つの指示は、互いの反対だけど、どちらも凪人の肩を押す強さを持っている。

 進む方向が、どちらなのか。

 止まった世界では、誰も知らない。

 前がどっちか分からないのに、足だけは前に出たがる。


 凪人は湯のみを置いた。

 「……母さん」

 呼ぶと、母は小さく笑った。

 「なに」

 「俺、昨日のことばっかり言って、いた」

 「知ってる」

 「今は、言えるように、なってきた」

 「知ってる」

 その言い方に、昔の夕方の匂いが混ざっていた。遅れて帰ってきた小学生の自分を、玄関で出迎えたときの、柔らかい疲れの混じった声。それを思い出した瞬間、凪人の胸がきゅっと締まる。


 「学校は?」

 母が尋ねる。

「休んで、いた」

 過去形に戻る。

 母は肩をすくめる。

 「じゃあ、明日は行ける?」

 明日、という言葉が部屋に置かれた。

 置かれた言葉は、床に落ちず、空にも昇らず、凪人の胸の高さで浮いている。

 「行く」

 今の形で答えられた。

 母の目尻が少し緩む。

 「よし」


 廊下の時計が、また一秒だけ進んだ。

 カチ。

 音が、今度ははっきり聞こえた。

 秒針は次の目盛りの手前で止まり、でも、目盛りに触れたという事実だけが空気に残る。

 凪人は立ち上がる。

 青年が、それに合わせてひとつ身を引いた。

 「写真、返して」

 凪人が言うと、青年は首を横に振る。

 ——預かる。

 また無音の意味が降りてくる。

 「預けないと進めない」

 青年の目が、そう言っていた。

 凪人は、胸に手を置く。布越しに、ノートの角が当たる。鏡文字で書いた自分の名。遼の名。母の名。書けない“君”の席。

 写真を預けることと、名前を持つこと。どちらも同じ重さに思えた。


 「あなたの隣の人に、よろしくね」


 母の言葉に、凪人は目を見開いた。

 「見えて、いた?」

 母はゆっくり首を横に振る。

 「見えてはいない。でも、いるって、分かる」

 彼女は窓の方に視線をやった。止まり木の方向。

 「朝になると、風鈴が鳴らないのに、風の匂いがする。あなたが帰ってくるときだけ、台所の湯気が少し戻る。いる人がいると、世界は、少しだけ戻るのよ」

 母は湯のみを持ち直し、凪人の頬にもう一度、左手を置いた。

「だから大丈夫」

 凪人はうなずく。

 青年は目を伏せる。安堵と絶望の中間の顔。いつ見ても慣れない表情だ。


 遼が部屋の隅に腰を下ろし、上を向いた。

 「母さん、俺の声、聞こえる?」

 母は首を傾げる。

 「いい匂いがするね」

 「何の」

 「昨日の川の匂い」

 遼は小さく笑い、床に両手をついた。

 「じゃあ、ちょうどいい。俺ら、河岸からこっちへ戻ってきたところだから」

 「遼」

 凪人が名を呼ぶと、遼は無言で親指を立てた。

 母は凪人の顔だけ見ている。見えていないはずの遼の、温度だけが部屋に広がる。


 「葬列は、あなたを連れていかない」


 母はもう一度言った。

 今度は、凪人の両肩に手を置いて。

 その手の重みは軽い。軽いのに、背骨の奥に届く。

 「あなたは、あなたの足で歩く」

 「うん」

 「誰かが順番を変えろと言っても、あなたが選ばないなら、世界は、あなたを選べない」

 母の言葉は、世界の文法とは別のところから来る。

 葬列のルールは、町全体の空気に染みこんでいる。でも、母の言葉は、家庭の空気の側にある。ご飯の支度、洗濯物の匂い、玄関の砂の粒、そういうもののルール。

 それは時々、世界のルールに勝つ。


 青年が胸ポケットから写真を抜き取った。

 二つ折りの紙。

 彼は開かない。

 開かずに、指で折り目をなぞる。指の腹が紙の角を覚える。

 ——戻れ。

 もう一度、唇が動く。

 「戻るって、どこに」

 凪人がつぶやく。

 青年は廊下の端に視線を向けた。そこには、玄関。外の光。止まった朝の匂い。

 過去に戻ることを「戻る」と言うのか。

 葬列に遅れないことを「戻る」と言うのか。

 それとも、彼自身の場所へ「戻る」のか。

 意味は三つに分かれ、どれも正しいみたいな顔をしている。


 母は首を横に振った。

 「進みなさい」

 「どっちへ」

 「あなたの足が出るほうへ」

 簡単な言い方に聞こえるのに、難しい。

 足は、いつも前に出る。その前がどっちか分からないときでも。

 凪人は、母の肩から手をそっとほどいた。湯のみを片づけるふりをして、台所へ回る。動作に意味を持たせる。意味に動作を合わせる。世界が、それに従って少しだけ戻る。


 流しの前で、止まった水が光った。

 凪人は蛇口を上げる。水は出ない。けれど、金属の中を移動する気配のような音がした。

 皿を重ね直す。音はしない。でも、重なりの感触だけが指に残る。

 母が立って、背中から声を届かせた。

 「遼くん」

 凪人は振り返る。

 母の視線は、空気の一点を見つめている。

 「ありがとう」

 遼は、凪人の肩越しに、照れたように笑った。

 「どういたしまして」

 聞こえないはずの返事が、部屋の温度を一度だけ上げた。


 家が、少しだけ広くなった気がした。

 見慣れた壁と、見慣れた窓と、見慣れた時計のあいだに、三秒ぶんの隙間ができた。

 その隙間が、これからの居場所になる。

 凪人は母の皿を拭き、台布巾を洗ったつもりで絞り、テーブルを撫でた。母は椅子に腰かけ、ゆっくり息をしている。息は深くなったり浅くなったり、波のように繰り返している。

 凪人はその波のリズムに合わせて、胸の奥の脈を数えた。


 玄関の方で、風が鳴った。

 風鈴は鳴らない。

 けれど、影がドアの足元を横切る。止まり木の鳥の影だ。首を傾け、こちらを見ている気配がする。

 遼が立ち上がった。

 「行こうか」

 「うん」

 青年も、写真をポケットに戻し、姿勢を整える。

 母は立ち上がろうとして、やめた。座ったまま、手を胸に当てた。

 「大丈夫」

 凪人が言うと、母はうなずいた。

 「帰っておいで」

 「帰る」

 今の形で答える。

 「そして、また行きなさい」

 母は笑った。

 「行って、帰って、行って、帰って。それでいいのよ」


 凪人は玄関で靴を履いた。かかとの内側に、砂が一粒。

 今日も、小さな痛みが、今を教える。

 ノートを胸に抱え、扉に手をかける。

 青年が、ドアノブの上に重ねた手を乗せた。

 視線が合う。

 ——戻れ。

 ——進みなさい。

 二つの言葉が、同時に胸に当たる。

 凪人は深く息を吸い、吐いた。

 「……行ってきます」

 外へ。止まった朝の匂いの中へ。


 大通りに、葬列が現れた。

 黒い布の台車、色あせた制服、誰のものでもない位牌。

 列の最後尾に、灰色のコートの青年が立つ。

 凪人は中央あたりの空いた場所に一歩入った。

 胸のノートが骨に当たり、痛みが走る。

 それを合図に、掌を開く。

 鏡文字で書いた自分の名を、指でなぞる。

 遼の名を、重ねる。

 母の名を、そっと押す。

 書けない“君”の席に、息を吹きかける。


 列が、わずかに呼吸した。

 歩幅が合う。

 三歩で、一秒。

 それくらいの遅さでいい。

 背後で、窓の内側がかすかに鳴った。

 もう一度、母の目が開いた、気がした。

 確認はしない。

 振り返るのは、帰るときの役目だ。

 今は、前にいる名のない者たちの背中を見る。

 名のない背中の輪郭が、風に削られないように、自分の名で風よけになる。

 遼が小声で言った。

 「お前、顔、変わったな」

 「そう?」

 「泣きそうで、泣いてない顔」

 「泣いたら、止まる」

 「止めたいときに泣け」

 「今は、進みたい」

 「なら、笑え」

 凪人は少しだけ口角を上げた。

 笑ったというより、笑う手前で止まった顔。

 それでも、胸の重さがわずかに軽くなる。


 列の前方で、鐘のような音が一度だけ鳴った。

 空が薄く揺れ、鳩が一羽、羽を震わせる。

 その羽が止まる前に、三秒ぶん、世界は進んだ。

 進んだ先に何があるのかは、誰も知らない。

 けれど、進んだという事実だけが、足に力をくれる。


 曲がり角で、風が前から来た。

 止まり木の方角とは逆からの風。

 知らない匂いが混ざっている。

 新しい教室の床のワックスの匂いに似ていた。

 凪人は、胸のノートを軽く叩いた。

 名前は輪郭だ。

 輪郭は、守るためにある。

 守ることは、開くためにある。

 開くことは、進むためにある。


 青年が最後尾で、写真の折り目を指でなぞった。

 その仕草はもう、稽古ではなく、別れの手順ではなく、点呼のように見えた。

 彼は口をわずかに動かした。

 ——戻れ、と言った唇の形が、今度は、——任せた、に変わった。

 凪人は前を向いた。

 母の「進みなさい」と、青年の「任せた」と、遼の笑い声を、歩幅に変える。

 三歩で、一秒。

 今日の世界は、それで十分に進む。


 遠くの屋根の上で、鳩が一羽、飛んだ。

 止まらない。

 飛んだまま、薄い空の方へ消えていく。

 誰も見失わないように、凪人は掌の中で名をなぞった。

 なぎと。

 りょう。

 かあさん。

 そして、空白。

 空白は、今日の席。

 いつか、その席に、まだ呼べない名前が座る。

 そのときまた、一秒ぶん、世界が進む。

 それまで、歩く。

 列の中で。

 自分の足で。

 進む方向がどちらなのか、誰も知らないとしても。

 自分で決めた歩幅を、今日だけは信じる。

 母の目が開いた朝の、一秒の隙間の中で。

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