第1話「葬列通り」
朝は、まるで誰かの夢の続きみたいに始まる。
目を覚ますと、世界が一瞬だけ透明になり、それから輪郭を取り戻す。
湿った空気。低い雲。冷えた木床の感触。
凪人は息をひとつ吐いて、ゆっくりと身体を起こした。
壁にかけたカレンダーは七月のまま、破られた跡がない。時計の針も六時で止まったままだ。
彼は知っている。この町では、時間が壊れている。
壊れたまま、それでも人々は同じ朝を繰り返す。
六時。
町の一本だけ残った大通りを、葬列が通り過ぎる時間。
彼は制服の上着を羽織り、玄関の戸を静かに開けた。
外の空気は塩の匂いがした。遠くの海から吹く風が、空き家の看板を鳴らしている。
通りの向こうから、ゆっくりと黒い影の列が近づいていた。
黒布をかけられた台車。枯れかけた花輪。顔を伏せて歩く男女。
肩には色あせた制服、作業服、割烹着。どれも、かつてここに生きていた誰かの残像だった。
列の真ん中では、白木の位牌がいくつも揺れていた。そこに書かれた名前は、全部、かすれて読めない。
葬列は、音を立てない。
足音の代わりに、風が鳴る。風鈴みたいに、金属のかすかな音が混じる。
それを聞くと凪人の胸が静かになる。
学校に行く代わりに、この列に混ざって歩くようになって、どれくらい経っただろう。
最初は怖かった。けれど今は、この列の中だけが、自分の居場所のように思えた。
家には、もう誰もいない。
母は椅子に座ったまま、静かに目を閉じている。まるで眠っているみたいに。
けれど一度も起きたことがない。
父は、戦争の終わりの日に出ていったきり帰ってこない。
凪人は、手のひらを見つめる。
爪の間に薄く灰が残っていた。昨日も葬列を歩いたあと、どこかで燃えた灰が降ってきたのだ。
空はいつも、どこか燃えかすのような色をしていた。
列の最後尾には、いつも灰色のコートの青年がいる。
長い脚、癖のある髪、背中の傾き。
凪人自身とほとんど同じ体格だった。
最初に気づいたのは、一ヶ月前。通りの角を曲がるとき、台車の陰から、その青年の横顔が見えた。
目の奥が、まるで鏡のようだった。
——いや、鏡よりも深い。覗き込むと、自分の未来が沈んでいるような気がした。
それ以来、彼はその青年を“未来の自分”と呼んでいる。
列はゆっくり進む。
朝靄の中、葬列の影だけが長く伸びる。
空の鳩は一羽も動かない。まるで止まった映像の中に、自分だけが生きているようだった。
ふと、風の音が止まった。
代わりに、胸の奥で何かが鳴る。鼓動のような、警鐘のような。
そのときだった。
“未来の自分”が、わずかに振り返った。
灰色の瞳が、まっすぐこちらを見る。
世界が、音もなく止まった。
鳩が空で固まり、落ちかけた葉が風の中で静止する。
葬列の足が、一斉に止まる。
列の中の全員が、ゆっくりと顔を上げた。
そして、凪人のほうを見た。
誰も口を開かない。
けれど、その沈黙の中にひとつの声があった。
——お前は知っているのだろう。
凪人の喉が、勝手に動いた。
「……知っていた」
その声は自分でも驚くほど遠く、乾いていた。
次の瞬間、彼は気づいた。
自分の口から出た言葉が“過去形”だった。
どうやっても、「今」を言えない。
試しに呟く。
「歩いている」——出ない。
「歩いていた」——出る。
恐怖よりも先に、奇妙な安堵が来た。
そうか、これでやっと、すべてが過去になる。
これから先のことを語らなくていい。
失うことを、もう予告しなくていい。
凪人は息を吐いた。
冷たい朝の匂いが肺の奥を満たした。
***
動かない通りに、ひとりの少女が立っていた。
白いマフラー。肩までの黒髪。目は泣き出す寸前のように潤んでいる。
凪人は見覚えがあった。
学校で隣の席だった子だ。名前が思い出せない。黒板の字のように、心から消えていく。
少女は凪人に近づき、囁くように言った。
「止まっちゃったのね」
「うん」
「時計も?」
「全部」
少女は微笑んだ。
「じゃあ、あなた、もう“明日”を見たのね」
凪人は眉をひそめた。
「どういう意味?」
「私もそうだったの。ある朝、未来の自分に見つめられてから——時間が止まった」
少女は空を見上げた。灰色の雲が、まるで紙みたいに裂け目をつくっていた。
「この町ではね、未来を知った人から順に、世界から消えるの」
凪人は笑おうとした。
けれど喉がうまく動かない。笑うという行為が、もう“過去のもの”になってしまったようだった。
「じゃあ俺も、消えるのかな」
「消える前に、返さなきゃ」
「何を?」
「明日を」
少女はそう言うと、凪人の手を取った。
指先が驚くほど冷たかった。
「明日を返さないと、この町は完全に止まる。あなたが見た“未来の自分”は、きっとそれを奪いに来たの」
その瞬間、通りの奥でざわりと風が生まれた。
止まっていた葬列が、ゆっくりと再び動き出す。
灰色のコートの青年が、こちらへ歩いてくる。
歩くたびに、アスファルトが灰になって崩れていく。
少女が凪人の前に立った。
「逃げて」
「どこへ?」
「踏切の向こうへ。あそこだけが、まだ時間を持ってる」
青年は無表情のまま近づいてくる。
「——返してもらう」
その声は、まるで凪人の声が反響したようだった。
「何を?」
「“今日”を」
葬列の人々が、同時に動き出した。
彼らの口から、祈りのような音が漏れる。
世界が震え、時計台の鐘がひとつ鳴った。
凪人の足元の影が伸び、通り全体が灰に溶けていく。
少女は凪人の腕を掴んだ。
「走って!」
その声が合図のように、空が砕けた。
建物が静かに崩れ、空気が薄くなっていく。
遠くで列車の汽笛のような音がした。
ふたりは、葬列をすり抜けて走った。
灰色の人影が手を伸ばすたびに、服の裾が風に裂ける。
踏切が見えた。遮断機は上がったまま、警報だけが止まらずに鳴っている。
少女が振り向く。
「向こう側は、まだ止まってない」
「行ったらどうなる?」
「わからない。でも、ここにいたら昨日になってしまう」
凪人はうなずいた。
線路の上を走る。
靴底が鉄に触れた瞬間、心臓が強く跳ねた。
その感覚が、生きている証のようで、痛かった。
背後で、葬列の鐘が鳴る。
灰色の青年の声が、風に乗って届く。
「お前は、俺になる」
凪人は振り返らなかった。
ただ走った。
少女の手を離さないように、強く握りしめた。
線路の向こう側に踏み出した瞬間、空気が変わった。
風が吹き抜け、空が少しだけ青く見えた。
時計の針が、一秒だけ動いた。
——カチ。
音が戻る。
世界が息を吹き返したようだった。
凪人は立ち止まり、肩で息をした。
少女は地面に座り込み、微笑んだ。
「ねえ、あなたの名前、なんていうの?」
凪人は口を開く。けれど声が出ない。
代わりに、手の中に何かがあった。
小さな紙片。いつの間にか握っていた。
そこには鉛筆の文字でこう書かれていた。
> 「ナギト」
少女がそれを覗き込む。
「それ、誰の字?」
「……わからない」
凪人は答えた。
けれど、心のどこかで理解していた。
——“未来の自分”が、残したものだ。
***
夕暮れ。
町の時計台が、六時を指したまま光を失っている。
葬列は再び通りを歩く。
その最後尾にいた灰色の青年の姿は、もうない。
代わりに、制服の少年がひとり、ゆっくりと歩いていた。
歩くたびに、空が少しだけ明るくなる。
鳩が再び飛び、鐘が遅れて鳴る。
それでも、通り全体にはまだ灰が舞っている。
凪人は線路の向こうで立ち止まり、遠くの町を見つめた。
「戻れると思う?」
少女が訊いた。
「わからない。でも、たぶん——」
凪人は口を閉じ、代わりに笑った。
「もう、昨日じゃない」
風が通り抜けた。
空の色が、ほんの少しだけ変わった。
——明日が、動き出した。




